自衛隊ニュース

読史随感
神田淳
<第168回>
世界情勢の変化と日本(3)
以下、前回に続いて、次の時代ーーー(3)太平洋戦争終結(1945)から冷戦終結(1989)までーーーの世界情勢の変化と日本の対応について論じる。この時代、世界が東西冷戦の中、日本はアメリカを盟主とする西側の国として国際社会に復帰し、比較的順境といえる国際環境の中で、経済大国となった。
終戦の1945年から1951年までアメリカは日本を占領下に置いたが、日本の非軍事化と民主化を厳しく進めた占領政策は、冷戦の進行とともに後半大きく転換した。中国大陸の国共内戦は共産党軍の勝利に帰し、衝撃を受けたアメリカは、中国でなく日本をアジアでの同盟国とし、共産主義への新たな防壁にしようとした。そのため、それまでの政策を改め、日本の経済復興に重点を置く政策に転換した。
1951年「サンフランシスコ平和条約」が結ばれ、日本は独立した国家としての主権を回復し、国際社会に復帰した。同時に「日米安全保障条約」を結び、国の安全保障をアメリカに委ねた。1960年安全保障条約は改正され、日本の安全保障を日米の義務とする、より平等な条約となった。安全保障条約に基づく日米同盟が、戦後の国際社会における日本の行動と国策決定の基軸となった。
終戦直後疲弊の極にあった国民の経済生活は十年ほどで戦前のレベルを回復し、1956年より経済の高度成長が始まった。1960年池田内閣の掲げた「国民所得倍増計画」は、計画を上回る速度で所得倍増を達成した。1956年から1972年間(いわゆる高度成長期)、日本は平均経済成長率9・3%という驚異的な経済成長を達成した。1968年には西ドイツを抜き、世界第2の経済大国となった。1973年石油ショックを機に高度成長は終わるが、その後も日本経済は安定的に成長し、1980年代後半には一人当たりの国民所得も世界トップクラスとなった。1989年昭和の終わりには日本のGNPは世界の14%に達し(2021年現在3・5%)、昭和天皇が崩御したとき日本は経済大国の絶頂期にあった。
技術革新により生産性を向上させた日本の重化学工業が経済成長を牽引した。自動車産業と電子電気機器産業は技術革新によって1973年、78年の石油ショックを乗り超え、国際競争力/輸出競争力を一層強化した。1980年代には日本の対米貿易黒字が大幅に増加。アメリカの経常収支は大幅な赤字となり、貿易摩擦が深刻化して貿易摩擦が日米間の最大の問題となった。
1985年円高不況対策として実施された公定歩合の引き下げと内需を喚起する経済対策を契機として、バブル経済が発生した。余った金が株式と不動産に投資され、株価と地価が高騰。投機的な土地取引が拡大し、企業が本業の投資よりも金融市場で利益を得る財テクに走った。昭和の終わり、絶頂と見えた日本経済はバブルだった。
1985年ソ連でゴルバチョフが書記長に就任。停滞したソ連の経済社会の改革に着手した。ゴルバチョフの登場は世界に大きな変革をもたらした。1989年冷戦の象徴だったベルリンの壁が壊され、ポーランド、チェコスロバキアなど東欧諸国で共産党独裁体制が崩壊。同年ゴルバチョフ書記長とブッシュ(父)大統領は冷戦の終結を宣言した。そして1991年にはソ連も崩壊してしまった。
太平洋戦争終結から冷戦終結までの日本は、西側に優位性のある冷戦下の世界で、アメリカとの関係を基本において、平和な成長を遂げることができた。冷戦後世界情勢は大きく変化し、日本は国の舵取りの難しい時代を迎える。
(令和7年3月1日)
災派想定して<34普連>
「相手の気持ちになって調理せよ」
各地で炊事競技会を実施
写真:腕をふるう隊員
第34普通科連隊(連隊長・兜智之1陸佐=板妻)は1月29日、板妻駐屯地において「令和6年度連隊野外炊事競技会」を実施し、炊事能力の維持・向上を図った。
競技会は災害派遣において被災者に食事を提供することを想定して行われ、各中隊1コ組6名編成により示されたメニュー(回鍋肉・いか中華風酢の物・青菜豆腐スープ・白飯)を調理しその腕を競った。
各中隊は炊事班長の指揮の下、中隊のプライドをかけ連携を図りながら、示された制限時間の中で調理技術を精一杯駆使した。
調理終了後は、連隊長をはじめ各中隊長、部外協力者等による審査を行い、盛り付けの見た目、味、食感等の評価を行った結果、第2中隊が優勝を果した。
雪舞う中で<対馬警備隊>
「相手の気持ちになって調理せよ」
各地で炊事競技会を実施
写真:まさに「戦場の厨房」
対馬警備隊(「統裁官」=隊長・鏡森直樹1陸佐)は、1月28日、警備隊の炊事能力の向上と部隊の士気高揚を目的とし、「挑戦」を要望して炊事競技会を実施した。
各部隊(本部中隊、普通科中隊、後方支援隊)は、雪が舞い散る中、それぞれテーマを掲げ創意工夫を凝らし炊事を始めた。炊事長の指揮の下、それぞれの役割に沿って調理している様子は活気に溢れ、まさに戦場の厨房をイメージさせられるものだった。
食材は決められているものの献立は自由とした炊事飯は、時間内に作り上げられ、ゲストに対馬市防衛協会会長と対馬駐屯地モニターを招き厳正に審査された。一口また一口、箸を止めながら評価されていった。
見事優勝を勝ち取ったのは普通科中隊であった。テーマは「対馬島民から愛され、親しみある町中華」、メニューは「鶏めし」、「油淋鶏」、「中華風サラダ」、「中華スープ」。
競技会を終え統裁官は「野外において冬の寒さが厳しい中、各中隊及び後方支援隊は「挑戦」の精神をもって、テーマに沿った創意工夫を凝らし、味的にも見た目的にも隊員の活力となる食事を提供できた」と評価した。
対馬警備隊は、食事は万人同様、隊員の士気高揚に重要なものであると捉え、更なる炊事能力向上に努め国境の防人を支えていく。
年忘れ行事で振る舞う<30普連>
「相手の気持ちになって調理せよ」
各地で炊事競技会を実施
写真:隊員たちも大満足
第30普通科連隊(連隊長・郡山伸衛1陸佐=新発田)は12月23日、駐屯地年忘れ行事に併せた形では連隊初となる、令和6年度連隊炊事競技会を実施した。
本競技会は、「今年を振り返りながら、皆を笑顔・元気にするメニュー」をテーマに献立を「唐揚げ」と「雑煮」に設定し、炊事所を開設した状態から調理完了までの行動を「手順審査」「見本審査」「食味審査」で競い、連隊内の5個中隊が参加した。
競技に先立つ開始式では、第2中隊の南波慎吾3陸曹が「日頃の練成成果を十二分に発揮し、正々堂々と戦い抜くことを誓います」と力強く選手宣誓を述べた。その後、統裁官(連隊長・郡山1佐)は「チームワークを発揮し、美味しさにこだわれ」「安全管理・衛生管理の万全」の2点を要望事項に掲げた。
当日は前日から降り続く雪の中、炊事班長以下5名により制限時間内に野外炊具を用いて味付けや見た目にこだわった「唐揚げ」と「雑煮」を手際良く作った。
今回の食味審査には、駐屯地の栄養士のほか、初めて駐屯地年忘れ行事に来賓として招かれた関係協力団体、防衛モニター及び駐屯地モニターにも審査協力していただいた。
厳正な審査の結果、第2中隊が最も多くの審査員から高い評価を得て見事優勝し、連隊炊事競技会4連覇を果たした。
調理された食事は駐屯地年忘れ行事で隊員達にも振る舞われ、皆の舌をうならせた。
食事は、戦闘力の維持と部隊の士気に直結するものであり、かつ、野外炊事は災害派遣活動において自衛隊に最も期待されることの一つであることから、引き続き練度向上を図っていく。
災派想定して<7普連>
「相手の気持ちになって調理せよ」
各地で炊事競技会を実施
写真:連携もスムーズに
第7普通科連隊(連隊長・佐藤教人1陸佐=福知山)は、1月22日、「令和6年度連隊炊事競技会」を実施した。
本競技会は、連隊の炊事要員の育成及び技能向上を図る目的として、各中隊から選抜された代表6名が参加し、調理の味や見た目の技術はもちろん自衛官として必要な実員指揮や基礎動作等を競い合った。連隊長は開会式において、2点を要望事項に挙げた。
1点目は、「相手の気持ちになって調理せよ」。本競技会の想定は、災害派遣での現場で被災者80名に対して温食の「カツカレー」を提供するというもの。料理をただ単に作るのではなく、食べる人がどのような立場、状況なのかを考えて提供することが必要である。
2点目は、「衛生管理・安全管理を徹底せよ」。どれだけ素晴らしい料理を作っても食中毒やけが人を絶対に発生させてはならない。以上の2点を要望し、一斉に競技が開始された。
中隊ごと、様々な工夫を凝らし手際よく調理を進め、制限時間の3時間以内にすべての部隊が配食を完了させた。
審査員は、部隊行動を審査する連隊本部の調理経験者のほか、試食審査員は駐屯地司令をはじめ、連隊本部の各科長、一般審査委員として防衛モニター、福知山市内の飲食店関係者、地元の高校の調理系の教諭、地域女性、インフルエンサーらの計17名が、部隊行動及び調理における味付け、見た目、色合い等の審査を行なった。
アレルギー表示の方法や2品目まで使用可能とされる追加調味料により独自の味を追求する中隊もあるなど工夫を凝らし、日頃の練成の成果を遺憾なく発揮した。
競技の結果、第4中隊が、見事優勝を勝ち取った。本競技会において、連隊の炊事要員の育成及び技能向上を図るとともに、部隊士気の高揚及び団結の強化をより一層深めることができた。
食事は、人の活力の源となり部隊の行動に大きく影響を与えるものである。これからも部隊の精強性、人的戦闘力の発揮に努めるとともに、自衛隊の災害対処能力が国民の皆様の安心感の醸成に繋がるように継続的な練成に努めていく。