自衛隊ニュース

自衛隊高級課程合同卒業式
統合運用の更なるけん引者に
7月28日、目黒地区の統合幕僚学校、陸上自衛隊教育訓練研究本部、海上自衛隊幹部学校、航空自衛隊幹部学校は合同で自衛隊高級課程の卒業式を行った。
式では木村次郎大臣政務官、吉田圭秀統合幕僚長をはじめとした防衛省自衛隊の高級幹部、学生や留学生家族等の来賓、学校職員らが学生の晴れの舞台を見守った。
今期は46名(陸17名・海13名・空16名)の1佐・2佐と1名のインド海軍大佐が入校し、昨年8月31日から約1年間、統合運用に関する幅広い知識・技能を学んだ。また本課程では初めて石垣島と与那国島で現地研修を行い、国外では独・印・英・仏・蘭の5カ国を訪れた。
学生を代表して三浦宏幸1海佐が修了申告を行った。その後、二川達也統合幕僚学校長が学生一人ひとりに「おめでとう」「がんばってください」等と言葉をかけながら卒業証書を手渡した。
執行者を代表して二川統幕学校長が「柔軟かつ創造的な思考を持って、既成概念にとらわれることなく、問題の本質を自らが考え、切り開き、深化させ、強い使命感と執念を持って統合運用体制の更なるけん引者となってもらいたい」と式辞を述べた。
吉田統幕長は「戦略的思考」「リーダーシップ」「信頼構築」の3点を要望し、「本課程で培った陸海空自衛官、そしてインド共和国の留学生を含めた同期生の人的ネットワークを大いに活用しつつ、統合、多国間連携の基盤となる信頼の輪を広げてほしい」と訓示した。
卒業生は式後、各部隊や幕僚監部での上級指揮官・幕僚として枢要な任務に就くべく、全国各地へ巣立って行った。
統幕学校が伊高等防衛研究センター等と意図表明文書に署名
6月5日、統合幕僚学校長の二川達也海将は、統合高級課程国外研修の際にイタリア高等防衛研究センターを訪問し、イタリア高等防衛研究センター所長のジャチント・オッタヴィアーニ海軍中将と「教育及び研究の交流に関する意図表明文書」に署名した。また、6月19日、二川海将は、国外研修の一環で統幕学校を訪れたオランダ国防大学学校長のリシャード・オッペラー海兵隊少将と同様の「意図表明文書」に署名した。
二川海将は、両校長と学校間の連携と教育及び研究の協力について意見交換を行い、今後の学生の相互訪問及び教官や研究員の交流、教育カリキュラム等の様々な情報交換を含め、学校間の交流の更なる深化を図ることで認識を共有した。
読史随感
神田淳
<第131回>
日独伊三国同盟について思う
今年も太平洋戦争の終戦日8月15日がやってくる。1945年8月15日、昭和天皇はラジオを通じ国民に戦争に負けたことを告げた(玉音放送)。
日本はどうして負ける戦争をしたのか。勝てる見込みのないアメリカと戦い、敗れ、大日本帝国を滅ぼすに至ったのはなぜか。戦争に至る歴史を振り返ると、1940年9月に日本の結んだ日独伊三国同盟が国策を致命的に誤った、とのほぼ確定した歴史評価に行き着く。
1939年9月すでにヨーロッパで第二次世界大戦が始まっていた。日独伊三国同盟を締結すると、日本は英仏等連合国と戦う独伊等の枢軸国側に立つことになる。同盟はヨーロッパ戦争、日中戦争に参戦していない国(アメリカを想定)から攻撃を受けた場合相互援助するものだった。日本に英米との戦争をもたらすおそれのある三国同盟を、日本はなぜ締結したのか。
1937年に始まった日中戦争が泥沼化し、日本は中国を支援する英米と対立するようになっていた。アメリカは日本が中国で勝手なことをしているとして1939年7月日米通商航海条約を破棄し、日本への敵対意志を表明した。日本に反英米感情が高まる中、ドイツはヨーロッパ戦線で連合国を圧倒する勢いを見せた。1940年5月に始まったドイツの進撃は英仏連合軍を打ち破り、イギリス軍はドーバー海峡から撤退して、6月パリが陥落、フランスはドイツに降伏した。ドイツの快進撃は、イギリスの降伏も間もないとの観測をもたらした。
1940年7月近衛内閣(第2次)が成立し、外務大臣に就任した松岡洋右は、アメリカをけん制するために日独伊三国同盟が有効であると考えた。陸軍はドイツと積極的に接触し、同盟成立に向けて動いていた。アメリカとの戦争になる、と同盟に強く反対していた英米派の海軍大臣米内光政、次官山本五十六が近衛内閣の成立後海軍省を離れると海軍も賛成に転じ、1940年9月日独伊三国同盟が締結された。その後の日本は想定通りというべきか、1941年12月アメリカと戦争を始め、徹底的に敗れて1945年8月降伏する。
以上が日独伊三国同盟の締結に至る歴史であるが、同盟が締結された土壌に、日本が親独国になっていたことがあげられる。日本は明治以来欧米をモデルとする近代国家建設を進め、西欧文明に学び、その文物を導入してきた。ドイツに学んだものも非常に多かった。日本の陸軍はドイツをモデルとしてつくられた(海軍はイギリス)。憲法も君主権の強いドイツ式とした。医学は圧倒的にドイツ医学であった。レシピ-はドイツ語で書かれ、カルテというドイツ語は今なお使われている。旧制高校における第二外国語は、フランス語よりもドイツ語の履修者が圧倒的に多かった。また、哲学は経験論のイギリスよりも、カントやヘーゲルなどのドイツ哲学を評価した。こうしたドイツ文化の学びは自然に日本人を親独にした。さらに日本人は、勤勉、几帳面で形式と規律を重んずるドイツ人が自分たちに似ていると思い、親近感をもった。
しかしドイツ人は親日でも何でもない。我々はドイツを批判できる力をもたなければならないと思う。ドイツ人は壮大な理論をつくるが、現実よりも理論を信奉するようなところがある。日本の知識人にもそういう人がいるが、ドイツの影響だと思う。また、ドイツの哲学者も理性を強調するが、私はドイツ人が歴史的に成してきたことを見て、ドイツ人は観念的、主観的傾向が強く、啓蒙的理性は英仏ほど強くなく、それは西欧におけるドイツの後進性だと思っている。
(令和5年8月15日)
神田 淳(かんだすなお)
元高知工科大学客員教授。
著作に『すばらしい昔の日本人』(文芸社)、『持続可能文明の創造』(エネルギーフォーラム社)、『美しい日本の倫理』などがある。
ノーサイド
北原巖男
もう一つの戦後史
「みーじゅーくーかーばーねー」
熱帯の心地よい柔らかい風のなかで、何となく郷愁を誘われるような歌声が響いて来ました。ここはインドネシア、バリ島。デンパサール郊外の英雄墓地。
コロナ禍の前のことですから、もう4,5年前になるのではないでしょうか。インドネシア人の女性ガイドさんの案内でこの英雄墓地を参拝しました。この墓地はインドネシア独立戦争で命を落とされた英雄達が眠る聖地となっています。
ガイドさんの導きで独立戦争に参加した日本兵数名のお墓にお参りをしました。彼女の説明以外にも、この人は日本人ではないかと思われる日本人風の名前が散見され、改めてインドネシアの独立に命を捧げた日本人の多さに感慨深いものを感じさせられました。
参拝を終えて広場に出たところ、向こうから在郷軍人の上着を着て、胸にネームプレートを付けた一人の老紳士が近づいて来ました。「わたしは、ここの在郷軍人会の会長です。今日はそこの会合所で在郷軍人会の会をやっていました。あなたのことをガイドから聞きました。懐かしくなったので声を掛けました」
そして突然、気をつけの姿勢になり、日本語で「わたしどもは東亜の学徒です。新しいアジアのために尽くします」と大きなはっきりした声で言われたのでした。本当にびっくりしました。会長はそれから「さっきの歌は海ゆかばです」と言われました。なにか懐かしい感じがしたのはそのせいだったのです。「海ゆかば」ほど英雄墓地にふさわしい日本の歌があるでしょうか。会長と一緒に私たちも「海ゆかば」を歌いました。
会長は中学生のとき独立戦争に参加、主に武器弾薬の運搬に従事したそうです。もちろん銃を持って戦闘にも加わったとのこと。中学校では日本語の授業を受け、日本の歌も沢山習ったそうです。会長は、「あるけーあるけーあーるけーあるけー・・・」「おーてーてーつーないでー・・・」「みよとーかいのーそらあけてー・・・」、次から次へと披露してくださいました。
「独立戦争に加勢してくれた日本兵の方々とも日本語で意思疎通出来、作戦遂行に非常に役立った。今はもう日本語は忘れてしまった」会長はもう一度思い出すように、日本語で「わたしは東亜の学徒です」と言われました。
会長は、「ここの戦闘では、日本軍の武器弾薬が提供されたのが決定的な勝因だ」と語られました。
インドネシアの独立戦争に従軍した日本兵は脱走兵の汚名を受けています。そして、武器弾薬の提供は連合軍から強い弾劾を受けたことは歴史的な事実です。
ーーーインドネシア国民は独立を勝ち取りました。
あれから長い時間が経ち、今やインドネシアは東南アジアの大国として繁栄の緒についています。ASEANをリードし、国際的にもその発言力・外交力はとみに増して来ています。その礎の一つとなったのが英雄墓地に眠る日本兵の方々といっても過言ではない、僕はそう思います。
先々月、天皇皇后両陛下がインドネシアを訪問され、ジャカルタの英雄墓地に花輪捧げられました。日本兵の御霊、安かれと祈るばかりです。
インドネシアで忘れてはならないのは今村 均陸軍大将と言えるでしょう。第16軍司令官当時、オランダ領インドネシア・ジャワで行った彼の「軍政」について、ノンフィクション作家の保坂正康さんは次のように記しています。(「WEB歴史街道」 筆者抜粋)
「軍政と言うと、弾圧的なものというイメージが強いが、今村の場合は「現地の人の生活を守る」を前提とした行政である。今村はジャワの人たちの意見を良く聞き、彼らの生活ルールを尊重した。・・・スカルノ、ハッタといった、オランダに抵抗した独立運動の指導者を牢屋から出したり、インドネシア独立の歌を歌うことを許したりもしている。その他の歴史、民族の誇りをおろそかに扱うことは無かった。このような今村の方針に「やり方が生ぬるい」という批判が陸軍内部で出た。・・・今村は、「職を免ぜられない限り、方針は変えない」といって応じなかった。・・・」
また今村 均陸軍大将は、戦後BC級戦犯の判決を受けた際、東京巣鴨の刑務所での服役を拒み、部下が収監されている厳しい環境のパプアニューギニアの小さなマヌス島の収容所に赴き、収監された人物でもあります。まさに武人の鏡と言っていいでしょう。
そのマヌス島で、BC級戦犯として終戦から約6年後の昭和26年6月11日、同じ日に刑死されたお二人の元海軍大尉、宮本逸八さん(48歳)と津穐孝彦さん(39歳)の遺書があります。(復刻「世紀の遺書」巣鴨遺書編纂会編集 昭和59年8月講談社刊 筆者抜粋)
「・・・僕が絞首刑を執行されたから夫は悪人であったかとは毛頭考へて呉れるな。僕は汝が知る人間に他ならない。所謂運命(天命)である。希くば妻子等よ。決して人を恨む事勿れ。神は逸八をして歴史に伝へしめるであらう。僕は決して人を恨まず。天を恨まず。世界の人々に幸多かれと祈を捧げて旅立する。汝(愛する妻よ)は健康に注意し子供を立派に養育してください。・・・」
「・・・国際条約に違反した行動が戦争中あったことを見せられました。しかし多くの人は、その行為が違反したものであったことを知らずに居ました。又、知って居ても異議を申立てることは当時の軍隊の命令に対しては許されませんでした。要するに命令権者の無責任な独善的な、人権と法規を無視した、神がかりの観念が原因をなしたと信じます。・・・」
今年も終戦記念日がやって参りました。合掌。
北原 巖男(きたはらいわお) 元防衛施設庁長官。元東ティモール大使。現日本東ティモール協会会長。(公社)隊友会理事