自衛隊ニュース

ゲッキーのイラスト

雄飛園の対空機関砲VADS1改

コーティング処置を完了

 令和4年11月下旬から始めている雄飛園(百里基地)に展示されている20mm(改)対空機関砲省力型の換装、再塗装及びコーティング作業が今年5月11日に完了した。

 平成26年3月26日に設置された対空機関砲VADS2省力型は老朽化により昨年引退した対空機関砲VADS1改と交換になった。

 今回の塗装は10年以上(一部除く)色を持たせるためにコーティング処置が施されて雄飛園に設置している。百里基地の雄飛園見学の際はぜひご覧頂きたい。

杉山司令が久留米で講演

理解促進に努める

<宇宙作戦群>

 宇宙作戦群(府中)司令の杉山公俊1空佐は6月4日、久留米シティプラザ(福岡県久留米市)において開催された「ISTS福岡・久留米大会開幕イベント~めくるめく宇宙博~」の特別企画として依頼を受け講演した。

 来場者約700名に対し「航空自衛隊は今、宇宙領域へ~取組と展望~」をテーマとし、宇宙作戦群発足の経緯から現在の活動内容、今後の展望について約1時間にわたり講演した。来場者の積極的な質疑にも丁寧に回答し、宇宙作戦群だけでなく自衛隊全体への理解促進に努め、隊員募集にも寄与した。

 杉山1佐は「厳しい安全保障環境の中、宇宙領域における安全保障も益々重要性を増しており、米国をはじめとする同志国や民間企業とも緊密に連携しつつ、教育訓練を通じた人材育成により宇宙作戦能力の着実な構築を図る」と今後の抱負を語った。

思い出の一枚

<三沢ヘリ空輸隊>

 皆さんは下の写真、どこの部隊かお分かりだろうか?そう、建設当時の三沢ヘリコプター空輸隊である。

 今から約36年前、昭和62年10月に三ヘリ隊施設の建設工事が始まった。当時この辺りは雑木林で、まずは建設予定地の樹木を伐採し、調査が行われた。すると縄文時代の遺跡(後に「下タ沢(しもたざわ)遺跡」と銘名)が発見されたのだ。結局、調査等のため本格的な工事が再開されたのは約1年後だった。

 平成元年3月31日、計画どおり部隊の編成完結式が執り行われたものの、施設は未完成のため、昔の8飛行隊前で式典を行った。そんな状況でも運用能力点検に向けた訓練を行わなければならない当時の三ヘリ隊は、編成完結式の翌日から千歳基地で移動訓練を開始した。そして約半年後の平成元年9月13日、待ちに待った施設の竣工記念式典が執り行われ、現在に至っている。

 「記憶は消えても記録は残る」と言われるが、この写真を見ることによって、当時の苦労や楽しかった思い出が、昨日のことのように蘇ってくる。

 これからも大切にしたい「思い出の一枚」だ。

ニコニコ超会議2023

F-2ジェットエンジンを展示

<百里基地>

 4月29日、30日の2日間、千葉県幕張メッセ国際展示場で「ニコニコ超会議2023」が開催された。

 会場の自衛隊ブースでは、3自衛隊(陸・海・空)によるトークショーや海上自衛隊ミニバイク展示、航空自衛隊百里基地からF2戦闘機用ジェットエンジンを展示した。

 特に陸上自衛隊の「スキャンイーグル2及び発射装置&回収装置」がひときわ会場で目立ち、来場者の注目を集めていた。

 また現役自衛隊員と会話ができることから沢山の来場者が集まり隊員の説明を聞き、記念撮影を撮って楽しむ姿が見受けられた。2日間に亘って開催された「ニコニコ超会議2023」は、たくさんの来場者にインパクトを与え幕を閉じた。

QCサークル大会9月に

40年の節目は初の沖縄開催

 「QCサークル活動」の成果を発表する第6回航空自衛隊QCサークル大会(会長・内倉浩昭航空幕僚長)が9月7日に開催される。

 QCサークル活動とは、「第一戦の職場で働く人々が小グループをつくって、製品・サービス・仕事などの職場の問題を自主的に解決していくことにより、自己啓発・相互啓発をはかり、サークルメンバー全員の能力を高め、明るく活力に満ちた職場づくりをしようとするもの」であり、航空自衛隊では、活動を通じて仲間意識の醸成、改善意欲の促進を図っている。

 今年は航空自衛隊で、QCサークルが始まって40年、さらに初めて航空自衛隊QCサークル大会が開催されてから10年という記念すべき年の大会となる。

 これまでの大会開催目的はQCサークル活動自体の普及が主であったが、今大会はさらに踏み込み、航空自衛隊の改善活動を活性化し、改善活動を組織文化として定着させるためのものと位置づけている。

 令和3年に開催された前回大会は、コロナ禍の中ということもあり、航空幕僚監部のある市ヶ谷基地をはじめ、全国の航空自衛隊基地を通信回線で結んでオンラインのみによる開催だった。今回は久々に発表者や審査委員が集合する対面形式であり、また、初の沖縄開催となることから、運営担当である南西航空方面隊(第9航空団)も意気込んで準備を進めている。前回大会の成果を活かし、引き続き、大会の様子はオンラインで配信し、沖縄から現地の気温にも負けない各サークルの熱意のこもった発表が全国の航空自衛隊基地に届けられる。

 今回、全112サークルの応募の中から、予選審査を経て選ばれた10サークル及びテーマは表のとおり。

読史随感

神田淳
<第129回>

インドネシアについて

 天皇皇后両陛下は、国賓として6月17日より1週間インドネシアを訪問された。ご即位後初めて国際親善のために公式訪問する国として、インドネシアを選んだ何らかの政府判断があったと思われる。

 インドネシアは親日国で知られている。伝統的な日本文化の他、ドラえもんなどの漫画、アニメ、ビデオゲームなどのサブカルチャーもインドネシアで人気がある。国際世論調査によると、好意的な対日・対日本人感情をもつ人々がインドネシアでは非常に多いことがわかっている。

 インドネシアは第二次世界大戦後オランダの植民地から独立したが、独立に対する日本の協力姿勢がインドネシア人の親日感情に影響しているという意見がある。一方、それを全く否定する意見もある。実際はどうだったのだろうか。

 太平洋戦争で日本は1942年2月蘭領東インド(現インドネシア)に侵攻した。植民地支配からの解放を期待するインドネシアの人々は日本軍の侵攻を歓迎した。スカルノ、ハッタら独立運動のリーダーは日本軍に協力した。しかし、日本の侵攻はインドネシアの資源確保を主目的としており、占領地に軍政を布いて独立を認めなかった。人々の期待は深い失望に変った。

 1944年9月戦局が悪化する中、小磯内閣はインドネシアの独立を認める声明を出し、1945年8月7日、スカルノを委員長、ハッタを副委員長とする独立準備委員会が設置された。しかし独立計画が実施される前の8月15日、日本は連合国に降伏しインドネシアは空白状態になった。8月16日スカルノ、ハッタの他、独立準備委員会メンバーは海軍武官前田精(まえだただし)少将の公邸に集まり、独立を決議し、独立宣言文を起草した。翌8月17日スカルノは、自宅に集まった約千人の立ち会いのもとで独立宣言文を読み上げ、スカルノを首班とするインドネシア共和国が成立した。

 スカルノ、ハッタはオランダ政府から主権委譲を受けようとしたが、オランダはインドネシア共和国の独立を認めず、再占領と再植民地化を進めたので、共和国軍はこれを阻止しようとオランダ軍と戦い、インドネシア独立戦争となった。軍事力に劣る共和国軍もゲリラ戦を展開し、よく戦った。国際世論は植民地主義に固執するオランダを激しく非難した。1949年11月、オランダよりインドネシア連邦共和国に主権を譲渡するハーグ協定が成立し、1950年8月には統一された独立国インドネシア共和国が成立した。

 インドネシアの日本軍政期、日本は軍政を補強するために現地青年からなる郷土防衛義勇軍(PETA)を組織し、教育訓練を施していたが、PETAの将兵が独立戦争を戦う共和国軍の主戦力となった。また、日本の敗戦後帰国せずインドネシアに残留した日本兵千人ほどが、独立戦争に参加したといわれる。戦後訪日したインドネシアの指導者は、独立戦争を共に戦った旧日本軍将兵に感謝する旨の発言をしている。

 「ロームシャ(労務者)」という言葉が、強制的に徴用されて重労働させられる者の意味で現代インドネシア語に定着している。これが日本の軍政期の圧政を象徴すると言われる。日本の軍政はよかったというインドネシアの指導者もいるが、国民は日本の軍政期に否定的である。しかし、その後のインドネシアの独立に理解を示す日本と日本人の行動は人々に評価されており、これが対日感情に影響を残しているように思われる。

(令和5年7月15日)


神田 淳(かんだすなお)

 元高知工科大学客員教授。

 著作に『すばらしい昔の日本人』(文芸社)、『持続可能文明の創造』(エネルギーフォーラム社)、『美しい日本の倫理』などがある。

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