自衛隊ニュース
音楽隊に敬礼っ!!<第4回>
前陸上自衛隊中央音楽隊長 樋口 孝博
北海道の大地にて
検閲が行われたモエレ沼公園
全国の音楽隊は、広い活動エリアをバスに揺られて移動します。なかでも広大な北海道は移動との闘いでもあります。音楽隊の車列は、乗用車・バス・楽器トラックがゆとりを持って走るので、長時間走っても地図上では数センチにしかなりません。また、札幌から稚内や知床などへの遠い道のりになると丸一日かかってしまうため、1時間の式典でも2泊3日の行程になります。予算のないときには一般道を使用しますし、大雪に襲われると走行が制限されることもしばしば。しかし夏のシーズンに車窓からながめる牧草や湿原は、まるでスコットランドのような美さで、清らかに流れる水と爽やかな空気が人間の生きる源ということを強く感じさせられます。
以前、「マーチとともに」というテレビ番組が全国ネットで放映され、演奏には全国の音楽隊が撮影協力をしました。日本中の観光名所でロケがされたことも話題を呼んだのですが、なんと北海道の音楽隊は広大なスキー場で撮影が行われました。演奏服を着た隊員たちが、スキーをはいてリフトに乗りながら演奏をしたり、スキーを滑りながら楽器を吹いているのです。もちろん音はアテレコですから、立派に演奏しているように見えるのですが、それが余計に「ありえない!」と思わせるのでした。
そんな大自然に囲まれた北海道は、地震や噴火、津波などの災害が繰り返されてきました。もちろん、音楽隊も災害派遣に向かうことがあります。音楽隊の企画力と技量が評価されるあるときの検閲では、そのような状況で行われました。「某日、北海道を襲った巨大地震にともない多くの市民が○○公園で避難中。音楽隊は慰問演奏を実施せよ!」というもの。快晴のもと爽やかな公園に向かうと、日曜の昼下がりに集った家族連れが柔らかい日差しのなかで賑わいをみせています。その皆さんからみれば単なる音楽隊の野外コンサートなのですが、こちらの命題は人々の気持ちを落ち着け、地震の不安を脱ぎ去る演奏をすることです。当然、司会のコメントも慎重に進めなければなりません。演奏は《北の国から》など、北海道では定番の曲を披露して気持ちを落ち着けてもらいます。そしてラストには、地元ならではの《よさこいソーラン節》に衣装を羽織ったメンバーたちが踊って、元気をつけてもらったのです。公園の聴衆からは盛大な喝采が送られ、コンサートとしては大成功でした。しかしその講評は意に反し、「余震の不安が残るなか、あのような派手な演出はふさわしくない」との厳しい指導をいただきました。その数週間後、帯広の駐屯地に宿泊していた早朝に、震度6弱の十勝沖地震が襲ってきました。これほどの大地震は経験したこともなく、ベッドにしがみつくだけで精一杯でした。
この二つのできごとで「そのとき、そのあと音楽隊はどうするのか」ということを真剣に考えさせられたのです。それらを常に考えながら訓練し続けることが人々の心に安心をもたらすことにつながるのだと思います。
読史随感<第166回>
神田 淳
世界情勢の変化と日本
世界情勢が不安定化している。国際秩序を維持する能力と意思をもつ国の無い世界になってきた。第二次世界大戦前の1930年代に匹敵する世界史上の危険な時期に突入しつつある、と認識する識者もいる。オバマ大統領はすでに2013年アメリカは世界の警察官ではないと言ったが、今年1月20日にはアメリカファーストのトランプが大統領に復帰した。ロシアはウクライナ戦争で、侵略して領土を拡張するロシアの国家体質が全く変わっていないことを示した(自らの認識は「戦略的防衛」だが)。ロシアと西側諸国との関係はかつてないほど悪化している。また、中国がアメリカに次ぐ軍事・経済大国となり、体制と価値観の異なる米中二大国の対立が世界を不安にしている。1月イスラエルとハマスは停戦に合意したが、イスラエル首相が必要なら戦争を再開すると言うなど、中東の地政学的不安定状態の解決は得られていない。
こうした世界情勢の中で日本はどのように生きるべきか。改めて歴史を振り返ると、日本の近代は世界(国際社会)に開国を迫られ、以来、変転する国際情勢に対応(レスポンス)して国策を決め、国をつくり運営してきた。以下、日本の近現代史を、〓1開国(1853)から日露戦争(1904)まで、〓2日露戦争後(1905)から太平洋戦争(1941)まで、〓3終戦(1945)から冷戦終結(1989)まで、〓4冷戦終結(1989)から現在(2025)までに分け、各時代の国際情勢の変遷と、日本の対応を振り返る。歴史を省みて今後の参考としたいが、大ざっぱに言って、国際情勢にうまく対応できたとき日本は成功し、対応を誤ったとき失敗している。
(1)開国(1853)から日露戦争(1904)まで
国際情勢への対応に成功し、日本が興隆した時代だった。近代化し、富強化した西洋諸国がアジアに進出した。いち早く産業革命を達成し、世界の工場となったイギリスの進出が最もめざましく、インドを支配下に入れ、中国に進出して1840年アヘン戦争を起こし、南京条約で香港を割譲させた。フランスはイギリスと植民地獲得を激しく争い、インドシナ半島を侵略し、19世紀後半にはその支配権を得た。アメリカはペリーを東インド艦隊司令長官に任命して日本に派遣し、力ずくで日本を開国させた(1853年)。
圧倒的な欧米の圧力は、日本植民地化の危機意識を生んだ。危機を回避するためには、日本を欧米並みの強力な近代国家にするほかないとの認識に達した当時の日本人は、幕府を倒し、中央集権国家をうち立てた(1867年明治維新、1871年廃藩置県)。この時代の国際情勢の圧力に対する日本の応答は、体制変革まで進んだ。
維新政府は殖産興業、富国強兵をスローガンとし、国づくりに邁進した。1889年憲法を制定し、選挙を開始。1890年帝国議会を開催し、近代国家の形を整えた。1895年日清戦争に勝利したが、国際情勢に深刻に対応し体制変革まで行って近代国家建設に向かった日本と、それをしなかった清との違いがこの戦争の結果に表れた。
1904‐5年日本は満州に南下するロシアと戦い、かろうじて勝つことができた。イギリスは南下するロシアとの対立を深め、日本との同盟を欲した。日本は日英同盟のもとにロシアと戦った。アメリカは日本を支持しており、ルーズベルト大統領の斡旋により日本は勝っているうちに戦争をやめることができた。
日露戦争の終結は国際情勢に誤らず対応してうまくいった日本のピークだった。日露戦争以後、日本は国際対応を誤るようになるが、それは次回以降論じる。
(令和7年2月1日)
齋藤新統幕最先任が着任
「一途一心、全身全霊を持って取り組む」
吉田統幕長の訓示を聞く齋藤統幕最先任(手前右)、甲斐前統幕最先任(同左)。後列は左から綿引陸自最先任上級曹長、北口海自先任伍長、髙着空自准曹士先任