自衛隊ニュース

ゲッキーのイラスト

防衛ホーム 俳句コーナー

寒林を吹き渡り風息継がず  畠中草史

寒行の終りし法鼓はこび去る  大内 猛

拙き字丁寧に書く初日記  北島美保

出産の予定日記す初暦  中園美智代

初笑ひして孫の歯の生え初めし  晴山雅之

海を見る漁夫身じろがず懐手  工藤青樹

雑煮食べ介護施設に父戻る  渡辺成典

降る雪に厨で過す日曜日  江上敏子

寒紅をひき退院の許し待つ  守家政子

先づ以て永字八法筆始  井戸田盛男

腰痛に雪掻の日に二度三度  土谷貞坊

母の忌やひらひらと来し雪蛍  人見冬菜

紅を刷き少し自惚れ初鏡  平山 梢

病院へ行く予約日の七日かな  齋藤利恵

日の温みここに集めて福寿草  早坂洋子

美男子と言はるる夫の初鏡  立川美佳

叡山を消し湖を消し雪しまく  丸岡泥亀

   選 者 吟

初日さし紅葉の色の衰へず  成川雅夫

(「栃の芽」誌提供)

HOME's English Class(防衛ホーム英語教室)

A Happy New Year 2010

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 あけましておめでとうございます。本年が皆様にとって素晴らしいとしでありますように、心から祈念申し上げます。

 皆様にさらに楽しんでいただけますよう、精魂こめて執筆を続けてまいりますので、本年もご愛読のほど、お願い申し上げます。

 この英会話コーナーも1994年1月1日号以来、16年目を迎えることになります。最初のフレーズは、“Let's start!"「さあ、はじめよう。」でした。多くの皆様から励ましや、温かい言葉をいただき、毎回楽しくコーナーの構成に知恵を絞ってきたのが本当に楽しい思い出として残っています。

 その間、タモリTV番組の「トリビアの泉」にも取り上げられ、70ヘーをいただく光栄にも浴しました。きっかけは、夏の富士の総合火力演習で配布された防衛ホーム号外を目にした人の投稿だったそうです。自分の知らないところで、話が発展していくのは驚きでもあり、人の縁を感じるものでもあり、人生を楽しくしてくれる一因ですね。出会いもあり、別れもあるのが人生です。このコーナーの執筆のきっかけを作っていただいた当時陸幕広報室勤務の元井龍造さんも昨年暮れに天国に旅立たれました。ありがとうございます。このコーナーを見守っていてくださいね。

 昨年まで、自衛隊の最終補職として小平学校で英語教官を拝命し、2年間にわたり、念願の後輩の育成にあたれたのは、幸運でした。大学院で教育と発達プログラムを専攻していることにも役立ちました。現在は、日本大学で勤務をしております。今年も目標をしっかりと掲げて、がんばっていきたいと思っています。I wish you “A Happy New Year 2010"(スワタケル)


スポーツよもやま話
根岸直樹

若手の手本に
工藤公康投手、日本一奪還目指す
16年ぶり、古巣・西武に復帰

 工藤は目の前に置かれた契約書にひととおり目を通すと、スンナリ名前を書き込んだという。「20何回もやってきたことだからね。改めて読み直すこともなかったよ」。これで一段落といった感じで、前田球団本部長と目を合わせ、ニッコリだった。推定年俸3千万円プラス出来高払い。一時は2億円を超えた年俸だが、本人は「金額はいくらでもよかったんだ」と、また口元をほころばせた。

 工藤公康投手(46)の埼玉西武ライオンズ移籍が決まった瞬間に立ち合った。29年前、愛知県の名古屋電気工(現愛工大名電)からドラフト6位指名で西武入りしたときの華やかな入団発表も見ているだけに、隔世の感は否めなかったが、その表情はむしろ晴れやかで、年令さえ感じさせないものがあった。

 思えば長い道程だった。西武で13年、ダイエーに移って5年、巨人で7年、そして横浜3年。15年間の“長旅"の末、生まれ故郷ともいえる西武に帰ってきたのだ。「ほぼ15年かけて野球の勉強をし直してきた。特別の思いのあるチームに最後に戻ることができて幸せです。もう一年投げられる喜びを感じながら、できる限りの思いをマウンドにぶつけるつもり」と胸を張った。

 渡辺久信監督は2才違いの「兄貴」。80~90年代、左右のエースとして西武黄金時代を築いた仲だ。しかし渡辺監督は「昔の仲間だから、というわけじゃない。十分、戦力として通用すると計算した結果」と工藤の力を評価した上で「中継ぎ、抑えで使うつもり」だという。

 さらには西武で8度、ダイエーで1度、巨人で2度も日本一の座についた左腕に「若い投手の手本になってもらいたい。特にルーキーの菊池雄星(18)=花巻東高、D1=には“1から10まで大先輩を見習え"と助言した」と渡辺監督。工藤も「伝統の強さを若い人達に受け継いでもらう意味でも“伝道師"役を買って出る」と話している。

 思い出したことがひとつある。担当記者だった1987年、巨人との日本シリーズ第6戦。3勝2敗で王手をかけた西武は、工藤がマウンドにいた。3対1で9回2死、打者は篠塚(現巨人コーチ)。そのとき、何気なく一塁を見た工藤の目に、2年目の清原が大粒の涙を流して立っているのが見えた。「一塁へ打球が飛んだら、キヨには捕れない」。涙で何も見えない後輩のために、工藤は篠塚に対して外角球を投げ続け、センター左への凡飛に仕留めたのだ。

 「あの人はオレ達後輩のことを、いつも考えてくれているあたたかい心の持ち主だった。工藤さんには公私とも、本当にお世話になりました」。そのときの話をすると、清原はテレながらも「西武日本一復活の旗頭は、工藤さんをおいて他にいない」と断言した。

 通算222勝137敗3セーブ、防御率3・40。数々の記録を樹立、最年長投手記録をも書き替え続ける工藤。「ここまでできたら50才までも投げていきたい」と、誕生日にちなんで「55番に決めた」(5月5日生まれ)そうだ。「ならば55才まで…」というと「出しゃばりオヨネは嫌われる。そこまでずうずうしくはないよ」と大笑いしたが、だれに嫌われてもいいから、55才までも投げ続けてくれ、と願うきょうこの頃である。

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