自衛隊ニュース

防衛省版サラ川防衛大臣賞決まる
ワクチンも 銃もうてるよ 看護官
防衛省・自衛隊ならではの部隊や家庭の日常風景を切り取った「第一生命 2022年防衛省版サラっと一句!わたしの川柳コンクール」(今回より「サラリーマン川柳」から名称変更)の入賞作品が1月26日決定した。
防衛大臣賞には、自衛隊仙台病院の今坂2陸尉の作品が選ばれ、2月7日、梶原東北方面総監から防衛大臣賞賞状と記念品が渡された。今坂2陸尉は「看護官は目立ちにくい存在だが、迷彩服も着るし、白衣も着て、時世に合った職務を行っているのだという思いを伝えたかった」と語った。梶原東北方面総監は「忙しい勤務の合間に知的創作をしていることを喜ばしく思う。ウィットに富んでいて、かつ自らの存在をアピールしている素晴らしい句である」との感想を述べた。
応募総数は4438句で、応募数の多かった高等工科学校(武山)、小平駐屯地、秋田駐屯地(応募数順)が団体賞を受賞した。
前回より、自衛隊員がお気に入りの句を投票できる「いいね!」投票の仕組みも導入され、その投票結果をもとに第一生命にて最終選考が実施された。防衛大臣賞1、優秀賞2、輝け!女性隊員賞2、優良賞5、良好賞20の計30句が選ばれた。防衛大臣賞、優秀賞、輝け!女性隊員賞は次の通り。
<防衛大臣賞>
ワクチンも 銃もうてるよ 看護官(陸自看護官)
<優秀賞>
お父さん 台風来るのに なぜ行くの?
(艦乗りの娘「チコちゃん」)
迷彩で ヒーローになる 子の迎え(マルエフ)
<輝け!女性隊員賞>
始めての メークがドーラン 新隊員(見守る中隊長)
セーラーを 娘達より 着こなせる(光海)
東京家政大学学生が
「戦闘服の機能評価」を発表
3月2日、東京家政大学 家政学部服飾美術学科消費生活研究室の学生が防衛省を訪れ、陸上幕僚監部装備計画部装備計画課需品室の隊員に対して「戦闘服の機能評価」をテーマとした卒業研究の発表会を行なった。
冒頭、官側は「我々も戦闘服を所掌する部署なので、勉強させていただきます」と期待を見せ、発表者である2名の大学4年生の背筋もさらに伸びていた。
発表のテーマは「自衛隊の役割を理解するとともに、戦闘服の機能について調査する」「被服という身近な課題を通して、自衛隊の存在意義について考える」というもの。米軍の戦闘服と市販されている戦闘服(レプリカ)の難燃性や強靭性についての実験データや着心地を重視した考え方など「服飾美術学科の女子大生ならではの発想」と思わせるものだった。最後には「海外からの侵略だけでなく地球規模の気候変動など、大規模自然災害の増加は確実に起こるので、我々若者はもっと自衛隊について関心を持ち、国を守るための議論をするべきではなかろうか」とSDGsと国防の両面から捉えた視点でまとめた。
官側も実物の戦闘服を展示しており、「実際に触れることが出来てよかった」「自衛隊の中でも被服の専門家を育て、戦闘服の研究が進められていることは興味深い」と学生らは感激していた。また、発表後の質疑応答も「丁寧に色々教えて下さり嬉しかった」と喜んでいた。
このような試みが今後も実施できたら、もっと自衛隊を理解し、興味を持った上で共感してくれる人を増やしていけるのでないかと思えた発表会だった。
雪のプレゼント
<海上自衛隊第5航空群>
2月16日、沖縄県宮古島空港に降り立った1機のP3C哨戒機から運び出されたのは、22箱の「雪」だった。
これは青森県の海上自衛隊八戸航空基地の隊員が八甲田山周辺に積もった新雪を採取して、第5航空群(群司令・高田哲哉海将補=那覇)が運んで来た物だ。宮古島空港には、横断幕を持って出迎えの人々が並び、高田群司令らに花束を渡し歓迎した。4年ぶりに行われたこのイベントは、久松五勇士会(粟国恒広会長)が主催し小学校に雪のプレゼントを届けるというもの。雪が届いた伊良部島小学校の生徒らは、裸足になって雪を感じる子、手作りの網で雪を頭に振るってもらい喜ぶ子など、様々な形で大喜びしていた。
その後、第5航空群司令始め隊員らは、久松五勇士の顕彰碑を綺麗に掃除し那覇基地に戻って行った。
読史随感
神田淳
<第121回>
どうして民主主義が根付かなかったのでしょう ー 平成の天皇陛下
2023年の文藝春秋新年特大号に、「平成の天皇皇后両陛下大いに語る」と題した昭和史研究家保阪正康さんの注目すべき寄稿が載せられている。保阪さんは2013年(平成25年)2月から2016年5月にかけて6回にわたり、半藤一利さんと共に御所に招かれ、天皇・皇后(現在の上皇・上皇后)両陛下と対談した。第1回目の対談のとき、保阪さんは自著『仮説の昭和史』を持参したが、その本の内容の簡単な説明を聞いて、天皇陛下は「仮説は大事ですよね。日本はどうして民主主義が根付かなかったのでしょうね」とおっしゃった。保阪さんはいきなり思いもよらぬ質問を受けて驚き、まごついてしまったという。
(戦前の)日本になぜ民主主義が根付かなかったのか。これは戦前の日本に関する本質的に重要な問いである。この問いに対する答えが、明治維新に始まる日本現代史の正しい認識と評価をもたらすだろう。以下、民主主義の定着を基本視点にして戦前の歴史を振り返ってみる。
明治維新は王政復古の形をとったが、「広く会議を興し万機公論に決すべし」を国家運営の基本方針とし、四民平等とするなど、民主革命ともいえる根本的な体制変革だった。1889年(明治22)憲法(大日本帝国憲法)を定め、1890年衆議院総選挙を実施、帝国議会を開会した。国民に衆議院を通じて国政に参加する道が開かれた。
初期議会ではなお藩閥内閣が超然としていたが、次第に衆議院で多数を占める政党に基礎をおく内閣が生まれた。1902年(明治35)から1913年(大正2)まで、藩閥に基盤をもつ桂太郎と立憲政友会総裁の西園寺公望とが交代で内閣を組織した(桂園時代)。
大正時代は民主主義の風潮が高まった(大正デモクラシー)。1916年(大正5)、吉野作造は民本主義をとなえ、政治の民主化のため普通選挙制度にもとづく政党政治の実現を求めた。1918年(大正7)立憲政友会総裁原敬は、陸海軍大臣と外務大臣を除くすべての閣僚を立憲政友会の党員から選ぶ本格的な政党内閣を組織した。原は平民宰相と呼ばれ、国民から歓迎された。
1924年(大正13)総選挙では護憲三派が圧勝し、第一党の憲政会総裁加藤高明が連立内閣を組織した。加藤内閣は1925年普通選挙法を成立させた。1924年(大正13)から1932年(昭和7)犬養毅内閣が倒れるまでの8年間、衆議院に基礎をもつ二大政党(憲政会と立憲政友会)が交代で内閣を組織する「憲政の常道」が実現していた。
1929年(昭和4)始まった世界恐慌から日本も深刻な恐慌となった。人々は、経済に無策で党利党略にかまけ、汚職で腐敗している(と見えた)政党政治を見離すようになった。1931年(昭和6)満州事変が勃発。世論は満州を占領する軍の行動を支持した。人々は政党よりも軍部を信頼するようになった。
1936年(昭和11)の二・二六事件以降、軍部は実質的に政治を支配するようになった。1940年(昭和15)近衛首相を総裁として、政府に協力する組織として大政翼賛会が結成され、議会は政府提案に承認を与えるだけの機関となった。形式的に憲法や議会の活動が停止することはなかったが、日本が1941年に始まる大東亜戦争に敗れて1945年GHQの占領政策として民主化が進められるまで、議会制民主主義は窒息させられた。
民主主義がなぜ根付かなかったのかについて、少し詳しく次回考えてみたい。
(令和5年3月15日)
神田 淳(かんだすなお)
元高知工科大学客員教授。
著作に『すばらしい昔の日本人』(文芸社)、『持続可能文明の創造』(エネルギーフォーラム社)、『美しい日本の倫理』などがある。