自衛隊ニュース

ゲッキーのイラスト

東北方面後方支援隊にマスコットキャラクター誕生

 この度、東北方面後方支援隊(隊長・山根茂樹1陸佐=仙台)に、マスコットキャラクター「べーご」が誕生した。

 隊員からキャラクターのデザイン、愛称、プロフィール、コンセプトを募集し、多種多様なキャラクター作品が集まった。それらの作品を審査し、東北方面後方支援隊の特色を活かした検討を加えて修正した4作品を最終候補として審査した。

 結果は、全隊員による投票形式で実施され、僅差で「べーご」が見事1位に輝いた。

【プロフィール】

 2006年生まれだが未だに子牛。右乳から整備用オイル、左乳から給水用真水がでる特技があるが使いすぎは勘弁してほしい。

【コンセプト】

・後支隊=「こうしたい」ということで子牛をモチーフにしている。愛称は、牛の東北なまり「べご」から。

駐屯地モニターが理解深める <島松>

 島松駐屯地(司令・豊田真陸将補)は、2月9日、駐屯地モニター3名に対して、北海道大演習場島松地区で行われた北部方面後方支援隊(隊長・小園井明裕1陸佐)の令和4年度冬季戦技競技会見学を実施した。

 競技は隊員5名が50個のチームに分かれてリレー方式で行われ、隊員約250名が参加した。駐屯地モニターの方々は吹雪の中、選手交代や追い越しの場面で、応援していた隊員と一緒に声援を送った。

 競技会見学のほか、冬季における装具等を展示し、駐屯地モニターは隊員に「スキーの種類の違い」「雪上車の乗員数」等、質問するなど、積雪地での訓練に高い関心を示した。

 駐屯地モニターの部隊見学の重要性を再確認するとともに、自衛隊に対し更に理解と関心を深められるよう、今後も駐屯地モニターの部隊見学を実施する。

6普連最先任上級曹長が「冬季戦技PJ」を新たに始動

ウィンターソルジャーの育成


 第6普通科連隊(連隊長・河村友則1陸佐=美幌)は、最先任上級曹長(湯浅正明准陸尉)が長となり、陸曹を核とした組織運営および分権指揮能力を趣旨とした新たなプロジェクトチーム(以下PJ)、「冬季戦技PJ」を結成し、連隊の隊員に対し「ウィンターソルジャーの育成」を開始している。

 冬季戦技PJは、各中隊の選抜されたスキー指導官や冬季遊撃隊員で編成し、「新たな積雪寒冷地訓練基準に基づく練度管理」、「指揮官に対する積雪寒冷地部隊としての基本的行動に係る助言」および「冬季における指揮官の補佐」を任務として活動している。

 その中で、連隊全隊員の冬季における知識及び技術の各個練度を管理すべく、訓練は(1)「冬季における特性=行動の基礎」、(2)「スキー技術=不整地や雪質に応じた技術」、(3)「行進・宿営=約20キロの装具を携行した状態で行進(アキオ曳行含む)・スノーマウント等の作成」、(4)「野戦築城=積雪環境における障害構成・偽装、アイスブロック及びアイスクリート作成」、(5)「戦闘行動=スキーを装着したままの射撃(レベル1~3)と運動・かんじきへの換装」、(6)「遭難者救出法=雪崩の知識、雪崩トランシーバーやプローブの取り扱い及びショベリングの要領等」の6点について、到達目標を設定し、各中隊の冬季PJ要員を主体に演練している。

 今年度配属された新隊員からは「積雪寒冷地での勤務は初めての経験であり、訓練を通じて、たくさんのことが経験できている。特に凍傷は、野外での訓練から誰がなってもおかしくないものであると感じ、凍傷予防の重要性などが大変勉強になった」とあった。

 引き続き連隊は、冬季戦技PJをもって「ウィンターソルジャー」の育成に努めていく。

村脇陸自最先任上級曹長が在日

米陸軍最先任と日米下士官交流

 村脇正伸陸上自衛隊最先任上級曹長はドッドソン在日米陸軍最先任上級曹長と共に、1月23日・24日、大津駐屯地および相浦駐屯地において日米下士官交流を実施した。

 1月23日は、第4陸曹教育隊において最先任課程の学生に対し、陸上自衛隊最先任上級曹長、在日米陸軍最先任上級曹長の講話を行った。学生は真剣に両者の講話を聴講し、隊員育成等について今後の資を得た。

 1月24日は、水陸機動団部隊研修において水陸機動団の陸曹に対し、在日米陸軍最先任上級曹長が自己の経験に基づくリーダーシップについて講話を実施した。講話後の質疑応答では活発な意見交換が行われ、日米下士官の更なる理解の促進に繋がった。

 陸上自衛隊最先任上級曹長は引き続き全国の最先任上級曹長と連携し、日米下士官の積極的な交流を行い、更なる信頼関係構築に努めていく。

読史随感

神田淳
<第120回>

伊藤博文の卓越したリーダーシップ

 昨年9月27日に執り行われた安倍晋三元首相の国葬で、岸田文雄首相、菅義偉前首相、麻生太郎元首相が弔辞を述べ、野田佳彦元首相が一カ月後の国会で追悼演説を行ったが、その中で、菅義偉元首相の弔辞が深く心を打つ。菅義偉元首相は弔辞の最後に、明治42年ハルビンで暗殺された伊藤博文を偲んで盟友山県有朋が詠んだ歌を取り上げ、今この歌くらい、私自身の思いをよく詠んだ歌はありませんと述べた。

 「かたりあひて 尽くしし人は 先立ちぬ 今より後の 世をいかにせむ」。

 伊藤博文と山県有朋は長州藩の最下級の武士として維新革命に身を投じ、明治の近代国家建設に苦闘した永年の盟友であった。後年、総理大臣などの要職を退任した後も元老として国家の運営に腐心した。二人の力は元老の中で突出していたが、両者の関係は伊藤の方が上位にあり、明治天皇の信任も伊藤に厚かった。上記の歌には、伊藤と共につくりあげた国家の運営を今後どうしていこうかと、伊藤を失った山県の心細さがよく出ている。

 伊藤博文は卓越した明治のリーダーだった。明治39年元老の伊藤は、首相官邸に元老(山県有朋、大山巌、松方正義、井上馨)と重要閣僚(西園寺公望首相、寺内正毅陸軍大臣、齊籐実海軍大臣、阪谷芳郎大蔵大臣、林董外務大臣)、及び児玉源太郎参謀総長、桂太郎前首相、山本権兵衛前海軍大臣らを招集し、日露戦争後の満州問題について協議、国策の方向付けを行った。当時伊藤は韓国統監であり、こうした国家の指導者を招集して国策を決定するような権限があったわけではない。しかし、元老伊藤にはそれだけの力があり、周囲も伊藤のリーダーシップは当然と考えていた。

 伊藤は日露戦争に勝利した後の日本軍が満州経営といって軍政をやめようしないことを憂慮し、国策をきちんと、明確に定めようとした。伊藤は言う。日本は英米両国と提携して満州の門戸開放を提唱し、ロシアとの戦争に入ったのであるから、今満州を独占しようとしてはいけない。ロシアに対しても旧怨を忘れさせるようにしないと、ポーツマス条約は一時の休戦条約と同じことになってしまう。また清国に日本を信頼させ、清国で指導的地位に立つためにも、満州はちゃんと清国に返すべきだ。余の見る所では児玉参謀総長等は満州における日本の地位を根本的に誤解しておられる。満州は純然たる清国の領土の一部である。わが属地でないところにわが主権が行われる道理はない、と。

 国際社会の動向と日本の実力を熟知する伊藤は実に正しく、的確な判断を下している。日露戦争に勝ったとはいえ、日本はまだ弱く、国際社会の容認する考えに従わなければ日本は危なくなるという現実的、常識的判断である。こうした認識は、実は伊藤の他の元老たちにも共有されていた。

 日露戦争後元老たちが退き、維新の第二世代がリーダーとなるにつれて日本は国策を誤るようになる。伊藤はこの会議の3年後世を去るが、彼の死は明治国家を建設した優れたリーダーたちの国家指導層からの退場を象徴する。

 日露戦争後日本はなぜ国策を誤ったか。一口で断定することなど不可能であるが、一つには国家指導層の凡庸化と共に、国家の制度化に伴って国家がセクショナリズムに支配され、統一した国家意思の決定能力に欠くようになったことを挙げたい。国家のセクションとしての軍部の意見がそのまま国策のようになった。伊藤はなお軍部を抑える力をもっていたが、その後同様の力をもつ指導者は出なかった。

(令和5年3月1日)


神田 淳(かんだすなお)

 元高知工科大学客員教授。

 著作に『すばらしい昔の日本人』(文芸社)、『持続可能文明の創造』(エネルギーフォーラム社)、『美しい日本の倫理』などがある。

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