自衛隊ニュース

ゲッキーのイラスト

もんべつ流氷まつり

姫路城を制作

<25普連>

 第25普通科連隊(連隊長・茶園宗武1陸佐=遠軽)は1月18日、北海道紋別市において開催される「第60回もんべつ流氷まつり」(2月10日~12日 紋別市内)に向けて雪像制作を開始した。今年は昨年末の大規模停電に伴う大雪の影響で氷が確保出来なくなったため、氷像から雪像に変更し姫路城を背景にしたステージ、滑り台及びミニスケートリンクを制作する。

 未だ膠着しているロシアによるウクライナ侵攻等、平和を祈念して建立以来一度も焼失していない姫路城の雪像を、心を込めて制作。作業開始にあたり、紋別市による受け入れ式の後に会場や道具のお清めなど行い、安全な作業を祈願して雪像制作を開始した。

ひと足早い春の訪れ

太宰府天満宮梅の親善使節

<北千歳>

 1月27日、福岡県の大宰府天満宮から「梅の親善使節」が、北千歳駐屯地(司令・牧野雄三陸将補)に来訪した。

 梅の親善使節の来道は、昭和31年の日本航空の新千歳-福岡便の就航を記念して始まり今年で65回目、北千歳駐屯地への来訪は昭和54年以降、今年で45回目を迎える。

 使節団から、花が咲いた紅梅及び白梅の2鉢と大宰府天満宮職員による手作り梅干しの贈呈を受け、お礼に北千歳駐屯地伝統の干支の羽子板を手渡した。

 懇談の中で司令は、「大きく育てて、花が咲くのを楽しみたい」と述べた。

 贈呈された梅は、ほのかな香りを漂わせ駐屯地にひと足早い春の訪れを告げた。

読史随感

神田淳
<第119回>

低線量放射線の健康影響について

 エネルギーの安定供給は国民生活と経済の基本であるが、特にウクライナ戦争勃発後エネルギー価格は高騰し、日本のエネルギーの安定供給が危うくなっている。原子力エネルギーの積極的利用が安定供給をもたらすが、福島原発事故後日本は原発の積極的利用政策を打ち出せていない。エネルギーの安定供給なくしては、日本の国力の低下と貧困化が進むのみである。

 原子力は非常に優れたエネルギーであるが、その利用に否定的な人たちは多く、原子力の安全、特に放射能に対する不安があるだろう。放射線医学の専門家より学んだ放射線の健康影響に関する正しい知見を以下にまとめ、啓蒙活動の一つとしたい。

 地上のすべての人は、放射線を浴びながら日常生活を送っている。年間被ばく線量(1年間に浴びる量)は世界平均で2・8ミリシーベルト、日本人の平均は3・8ミリシーベルトで、主として自然放射線からの被ばくと医療放射線からの被ばくによる。日本人の医療放射線による被ばくは世界平均よりやや多い。この程度の少量の被ばく(低線量被ばく)は、人の健康に全く無害である。

 放射線被ばくが有害となるのは、大量に被ばくした場合である。7000ミリシーベルト以上被ばくすると人は死亡する。4000ミリシーベルトでは50%の人が、2000ミリシーベルトで5%の人が死亡する。また一定以上の放射線量を被ばくすると、将来がんを発生するリスク(危険度)が被ばく線量にほぼ比例して増える。100~200ミリシーベルト被ばくすると発がんリスクは1・08倍、200~500ミリシーベルトでは1・16倍、1000~2000ミリシーベルトでは1・4倍、2000ミリシーベルト以上では1・6倍となる。ちなみに良くない生活習慣もがん発生のリスクを高める。喫煙による発がんリスクの増加1・6倍、毎日3合以上の飲酒による増加1・6倍、運動不足による増加1・15~1・19倍、塩分の摂りすぎ1・11~1・15倍、野菜不足1・06倍となっている。喫煙や飲酒の習慣は、2000ミリシーベルト以上の放射線被ばくと同等のがん発生リスクを高めることがわかる。

 それでは、100ミリシーベルト未満の低線量被ばくの場合のがん発生のリスクはどうか。リスクの増加は無い(見られない、確認できない)というのが結論である。低線量被ばくでもリスクはわずか増えているのかもしれないが、それはあまりにも小さく、他のリスクに埋没して疫学的に確認できない。それで、放射線医学では健康に悪影響のない線量として100ミリシーベルト未満を目安とする。

 ちなみに、福島原発事故での福島県一般住民の被ばく線量の最高値は23ミリシーベルトであった。住民の0・7%が10ミリシーベルト以上被ばくし、41・4%が1~10ミリシーベルト被ばく、57・8%が1ミリシーベルト未満だった。こうした低線量の被ばくであったため、福島で放射線被ばくによる健康障害は起きていない。

 過去放射線被ばくの遺伝的影響が恐れられたことがあったが、広島・長崎の8万人にのぼる被ばく者を対象とした長期にわたる綿密な追跡調査によって、遺伝的影響はないことが判明している。また、被ばくによる健康影響の子どもと大人の違いについても、500ミリシーベルト未満の被ばくでは子どもと大人に差はないことがわかっている。

 放射線が有害となるのは、一定量以上を被ばくした場合である。低線量放射線を恐れる必要はない。(令和5年2月15日)


神田 淳(かんだすなお)

 元高知工科大学客員教授。

 著作に『すばらしい昔の日本人』(文芸社)、『持続可能文明の創造』(エネルギーフォーラム社)、『美しい日本の倫理』などがある。

ノーサイド

北原巖男

ふるさとのはなしをしよう

 突然ですが、全国の自衛隊員の皆さんの中には、高校等を卒業後、防衛省・自衛隊入隊のためふるさとを離れたまま今日に至っている方も多いのではないでしょうか。入隊以来、全国の駐屯地や基地、職場を異動しながら頑張り続けて幾年月。

 「ふるさとを出て、もう何年かなぁ…」何かの拍子に、そんな思いがよぎることもあるのではないでしょうか。かけがえのない皆さん自身のふるさと。

 最近こんなことがありました。かつて "カンムリワシ" の異名をとった石垣島出身、沖縄初の元WBA世界ライトフライ級世界チャンピオン具志堅用高さん(世界タイトル13度連続防衛)と那覇市出身でガレッジセールのゴリさんとのトークショー「沖縄の本土復帰50周年を語る」。お二人の抜群に呼吸が合ったふるさと沖縄に対する熱いキャッチボール・笑い満載・具志堅さんの名言「人生は、簡単にダウンするなよ!」も。

 トークショーの中で、具志堅さんは、石垣島には中学を卒業する15歳まで、高校時代は那覇市そして高校卒業と共に上京した旨、ゴリさんは、10代のときに東京に出て来た旨語っていましたが、お二人が縦横無尽に話されるふるさと自慢に時間の経過を忘れてしまいます。そんな沖縄にまた行きたいとの思いを強くした1時間でした。

 お二人と同じように東京暮らしが圧倒的に長くなっている僕ですが、彼らのようにふるさとを語ることが出来るでしょうか。否。ふるさとに向き合い、ふるさとの自然や生活・歴史・伝統・文化・風俗・料理・方言などを、どれだけ分かっているか。ほとんど知らないではないか。今になって、もっとふるさとを知らなければ、知りたい、との焦りのような気持ちも抱きながら会場を後にしました。

 隊員の皆さん、本紙読者の皆さんは、いかがでしょうか。

 帰宅後、毎週金曜日の午後には東京・神田の古書店巡りを30年以上続けている長老の方から、「自分のふるさとを知ることは大切だと思いますよ」と読むように勧められていた本を改めて引っ張り出しました。厚さ7cmもある箱入りの「上伊那郡史」(大正十年十月十五日 長野県上伊那郡教育会発行)。今から100年も前に、様々な資料を集めてまとめられたセピア色のページには、知らないことや驚きがいっぱい。頻発した災害。飢饉による餓死者のなんと多いこと。江戸時代、ふるさと高遠藩では、土地の肥沃度等によって各村を上々村・上村・中村・下村・下々村に等位分けして石高を決めていたんだ。僕の村は、…下々村かぁ。谷あいの村のため、太陽が半日しか当たらず「半日集落」を今も実感するふるさと。よくぞ今日まで生き残って来たものだと、愛おしくなります。

 「…きみの知らない ぼくのふるさと

 ふるさとの はなしをしよう

 …きみが生まれた きみのふるさと

 ふるさとの はなしをしよう」(歌手 北原謙二「ふるさとのはなしをしよう」歌詞筆者抜粋)

 なお、毎年第一生命が実施している川柳コンクールには防衛省版があります。最新の入賞作品の一つは、これ。

 「異動して 実家遠のき 妻笑顔」(令和4年度防衛省版サラッと一句!わたしの川柳コンクール 1月31日にリニューアル公開された防衛省HPより。トップページのデザイン・検索機能・掲載内容等が工夫され、使い勝手の良いHPとなっています。アクセスしてみてください。)


北原 巖男(きたはらいわお) 元防衛施設庁長官。元東ティモール大使。現日本東ティモール協会会長。(公社)隊友会理事

自衛官にとっての「人生100年時代」(18)

準備は早ければ早いほど良い

自分のことは自分でやる

 私は、平成21年4月に定年退職し、援護担当者にお世話を頂き再就職、令和元年9月に再々就職して、現在、第3の人生を歩んでいるが、現職とは全く違う世界であるとつくづく思う。

 退職後の新たな職に就いて間もない頃、部長職として忙しく勤務していた。隣席の部下に「ちょっとこれコピーを」と言ったところ、意外と冷めた目で見られた。また、部の業務として計画されている説明会の分厚い資料の袋詰めを「ちょっと頼む」と言う前に、「説明するのは部長ですよね」という言葉が飛んできた。「なに?」の言葉を飲み込んだことを今でも覚えている。

 今考えれば当り前のことなのだが、いくら上司とは言え、職場の同僚や部下達は、年齢は若くてもその道の先達者であり、私より遥かに知識もあり古株である。職場はどこも忙しく、自分が忙しい時には恐らく部下はもっと忙しい。

 現職時もそうだったが、退職が間近になる頃には、部下が仕上げた仕事の上で仕事をし、部下に任せることが普通となっていた。そこから一般社会に出たのである。たとえ部長職ではあっても、そこでは当然一年生だった。

 自衛隊だった時の肩書や階級などは、通常の場合、一切関係ない。「俺は元・・・だ」に対し、「だから?」で終わりである。コピーだろうが何だろうが「自分がやるべきことは自分でやる」のが原則なのだ。

 中には、現職時の肩書をいつまでも意識し、それをあらわにする人もいたが、無視され、そのうちいなくなった。

 これまでとは違う世界なのである。


早めに意思を固めて技量を磨く


 この世界にうまく飛び込むためには、その準備は早いほど良い。私の場合、「退職後に何をしようなどと考えるのは邪道だ」と軽く考えていたが、退職間近になって戸惑った。何も準備していなかったのである。

 これまでの自衛隊勤務で培ったものが "一生の宝物" になることは間違いないが、「人生100年時代」の残りの長さを考えるとこれだけでは足りないのも事実なのだ。

 「退職後に何をやるか」を早めに固めれば、それに向けて資格の取得、職業訓練、自学研鑽など、出来る範囲で自分の技量を磨くことができる。そのことが再就職ばかりか、その後の人生にも役に立つのである。


職業訓練の有効活用を


 私が勤務している専門学校では職業訓練生を受け入れている。

 この職業訓練は、求職者のため、厚生労働省が都道府県を通じて学校や企業に委託しているもので、資格や免許取得に有利である。授業料は原則無料、条件に適合すれば生活に必要な手当も受けられる。卒業に当たり就職支援もあって再就職には有利である。

 様々な職域の訓練が準備されており、ネット検索やハローワークで確認し、大いに活用したらよいと考える。

◇ ◇ ◇

 最後に。「茹でガエル」という言葉がある。熱いお湯の中に蛙を投げ込むと蛙は必至にそこから抜け出ようとするが、浸かっている水を徐々に温めると、熱くなっても抜け出ようとはせず、ついには茹であがってしまう。

 退職を目の前にする自衛官達に対してこの例えはあまりに失礼だが、「まだまだ先のこと」とは思わずに早く気付くよう強くお勧めしたい。(K)


 「退職自衛官の再就職を応援する会」の詳細と問い合わせ、本シリーズのバックナンバーはこちら。https://www.saishushoku-ouen.com/

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