防衛ホーム新聞社・自衛隊ニュース
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自衛隊ニュース   1007号 (2019年7月15日発行)
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読史随感
神田淳
<第33回>

トインビーの文明史観と日本近代

 アーノルド・J・トインビー(1889-1975)はイギリスの歴史家、20世紀最大の文明史家といわれる。該博な知識と巨視的な文明史観をもって世界の文明の興隆と衰退を研究。これを大著『歴史の研究』に著した。
 トインビーは、人間の文明は、過酷な自然環境や人間環境から様々な挑戦を受けて苦しみ、これに応戦することによって発生するという。そして挑戦に対する応戦の成否が文明の興亡を決める。逆境が文明を生み、困難な挑戦に対する創造的応戦が文明を成長させるが、順境、安逸と成功体験による創造的応戦の喪失が文明を挫折させ、衰退させる。そして創造的応戦力を喪失させるものは、成功体験の偶像化であり、これを先導するのは驕慢であるという。
 トインビーは世界史の数多くの文明の興亡を研究して、こうした文明興亡の様相が普遍的にみられることを説いている。日本の近代の盛衰もトインビーの文明史観で説明できる。
 幕末、ペリーの来航(1853)に始まる西欧文明の挑戦は、日本に未曾有の困難をもたらした。アジア諸国は次々と植民地化された。科学革命と産業革命を経て近代化し、強い軍事力をもつ西欧列強に対して、攘夷など不可能であり、日本が生き延びるには、開国して西欧並みの強い近代国家になるしかないと信じ、富国強兵の国家目標に邁進したのが日本の応戦であった。日本の渾身の応戦は成功だった。日露戦争(1904-1905)に勝ち、不平等条約の改正にも成功し、日本は列強の一員の地位を得た。
 日露戦争後日本はつまずき、転落していく。日本のつまずきは、5大国となった絶頂の日本が北京政府に突き付けた対華二十一箇条要求に始まる(1915、大正4)。
 昭和の始め頃より日本は軍部に国政を支配された。満州事変(1931、昭和6)、国際連盟からの脱退(1933)、1937年から始まる日中戦争の泥沼化、日独伊三国同盟の締結(1940)、すべて軍部に引きずられた結果である。そして日米戦争に行きつき、徹底的に敗北する。軍部は日露戦争での成功体験を偶像化し、創造的応戦ができなかった。そして軍部には驕慢な精神が横溢していた。
 1945年、敗戦、廃墟、欠乏という挑戦に対する戦後の日本人の応戦は必死だった。必死で働き、懸命に産業を興した。高度成長を実現し、1968年にはGDP世界第2位の経済大国となった。一人当たりのGDPも1980年頃には欧米先進国並みとなった。『ジャパン・アズ・ナンバーワン』という著書も現れた。戦後に始まる昭和の後半(1945-1989)の日本は国力が興隆した成功の時代だった。
 1989年から始まる平成の時代は日本が国力を落とした30年と評価される。日本経済の国際的地位は継続的に低下した。日本は冷戦終了後(1989〜)の世界の大きな変化に対応(応戦)できなかった。成功体験がこれを拒んだ。日本の電子機器産業は情報産業に脱皮できなかった。安全保障に関する世界情勢の変化にも日本は対応できなかった。それは湾岸戦争における日本の失敗に現れた。日本は平和憲法を偶像化した。
 日本は少子高齢化、厖大な国債発行など、国内からも困難な挑戦を受けている。日本は豊かさを維持できないかもしれない。令和の時代は真に創造的な応戦が求められる。イノベーションを創造する若い世代の知力と人間力を期待したい。
 (令和元年7月15日)

神田 淳(かんだすなお)
 高知工科大学客員教授
著作に『すばらしい昔の日本人』(文芸社)、『持続可能文明の創造』(エネルギーフォーラム社)、『美しい日本の倫理』など。


APNIC開催
<海自幹部学校>
16カ国40名の士官が熱い議論
 海上自衛隊幹部学校(学校長・乾悦久海将)は、令和元年6月17日から2週間、米海軍計画作成手順の普及を目的とするAPNIC(Asia Pacific Navy Planning Process International Cource)2019を開催し、6月28日に修講した。APNICは大規模災害等の事態に多国籍の海軍が共同して効率的に活動するために必要となる計画立案手順をインド・アジア太平洋諸国の海軍士官に教育するプログラムであり、米海軍大学の教授陣が教育を担当し、幹部学校はこの取組全体を支援した。昨年に続き4回目となる今回は、16カ国から40名の海軍士官等の参加となった。
 参加国は、オーストラリア連邦、バングラディッシュ人民共和国、グレートブリテン及び北アイルランド連合王国、インドネシア共和国(初)、インド、日本、大韓民国、マレーシア、ニュージーランド、パキスタン・イスラム共和国(初)、ペルー共和国、フィリピン共和国、スリランカ民主主義共和国(初)、タイ王国、ベトナム社会主義共和国及びアメリカ合衆国で40名の大尉から中佐クラスの人道支援/災害救援(HA/DR)活動を行う多国籍部隊の司令部において中心となる人材が参加した。
 1週目は、計画作成の標準手続に関する講義を実施、2週目には計画作成演習を行った。演習は3つのグループに分かれて、大型ハリケーンで被災した架空の島の住民を災害救援するための計画作成を実施した。参加者は、積極的に計画作成手順の習得に取り組むとともに、参加者同士の交流を深めた。
 幹部学校長の乾海将は、開講式のあいさつで米海軍と海上自衛隊の厚い信頼関係に根差すこの取組の意義や必要性を強調するとともに、修講式では「インド太平洋地域の課題を解決するための多国籍間部隊が編成されることがあれば、本講習修講者がその中心的な役割を果たすことを期待するとともに、APNIC修講者の絆が、未来のインド太平洋の海上安全保障をより強固なものにする」と述べた。

砕氷艦「しらせ」に気象庁長官表彰
 砕氷艦「しらせ」(艦長・竹内周作2海佐)は、令和元年6月3日、気象庁本庁で行われた第144回気象記念日記念式典において、気象業務の発展に寄与した功績により気象庁長官表彰を受賞した。気象記念日は、明治8年6月1日に気象庁の前身である東京気象台が開設されたことを記念して制定された日であり、毎年国土交通大臣及び気象庁長官から気象業務の発展に貢献した個人や団体に対する表彰が行われている。
 今回の「しらせ」に対する表彰は、5年以上継続した観測通報を、年間100通以上実施し、かつ、過去2年間に500通以上の通報実績があったことが高く評価されたものであり、先代の「しらせ」に続く2回目の受賞となる。
 表彰式では、開田康雄気象庁長官から「しらせ」艦長の竹内2海佐に感謝状と盾が送られた。
 表彰式終了後の気象庁幹部との懇談の場で、竹内2海佐は「今回の表彰は歴代「しらせ」の乗員の成果が評価されたものであり、励みになる。今後とも気象庁の観測業務に協力していきたい」と述べた。

米海軍艦艇等研修
日米下士官のリーダー集結
 4月18日、米海軍横須賀基地及び楠ヶ浦、吉倉地区において米海軍艦艇等研修を実施した。海上自衛隊先任伍長・関秀之海曹長が、米第7艦隊最先任上級兵曹長の招待を受け企画し、実現の運びとなった。統幕・空自の最先任等をはじめ、在日米軍最先任リチャード・ワインガードナーが横田基地より合流し、日米総勢30名を超える「下士官のリーダー」が集まった。
 米空母「ロナルド・レーガン」艦内を皮切りに、USO JAPAN Yokosuka Office、第2潜水隊群(潜水艦2隻)、第1護衛隊群(護衛艦「むらさめ」)を研修し、各部隊・施設特有の業務や取組について、実地に見学し、質疑応答を交わしながら大いに知見を得た。
 普段の持ち場で抱える事情は違っても、問題解決へのアプローチに話題が及ぶと、お互いに共感する部分が多く見られた。組織の統合的な運用に先んじて、「人と人」が密接に関係構築していくことの重要性を再認識し、6時間を越える研修の成果を胸に、リーダー達は持ち場へと戻っていった。それぞれの目には充実の色を浮かべつつ、明日からの取組に対する気力がみなぎっていた。

令和元年度 第1回先任伍長講習
 年間3回実施される先任伍長講習が、6月3日から7日の間、海自第2術科学校において実施された。令和元年度の第1回次講習には、初の試みとして、米海軍からの受講者が1名招かれていた。
 シニア・チーフのプルーイット・チカコ(シニア・プルーイット)の所属は、U.S.Naval Computer and Telecommunication Station Far East Yokosuka(米海軍極東通信隊)、現在は整備補給部門の先任下士官を務めている。入隊時は施設(SCW)職域だった彼女だが、水上艦艇(SW)、航空(AW)、情報(IW)と現在保有している職域は4つを数える。経歴管理上の向上心もさることながら、個人の生活環境に応じて柔軟な選択肢(配置・勤務地)が用意されている米海軍を、象徴的に体現している人物だ。とは言え、現配置には今年の3月に着任したばかり。慣れない勤務と、3人の育児に奮闘している中、本講習への参加を決めた。
 先任伍長講習は、全国の部隊から様々な職域の先任伍長候補者及び、未受講の現職先任伍長が集い・学ぶ、言わば先任伍長の登竜門。5日間という時間があっという間に過ぎていく、中身の濃い講習科目が揃っている。将官の講話は期間中3回を数え、各施策の担当幹部から直接教育を受け、受講者が主体となる活動の時間には、全国から駆け付けた先任伍長達の熱心な指導が続いた。
 受講者達は言葉一つ逃さないよう、必死で耳を傾けメモを取っていた。両親が日本人で、自身も関西大学を卒業しているシニア・プルーイットだが、日本語での生活を離れて久しい。まして講習内容のほとんどが、海上自衛官による海上自衛官への教育であることは、彼女にとって用語一つの理解にも苦しむ場面が見られた。そんな彼女を救っていたのは、同じグループの受講者達だった。休憩時間を利用しながらコミュニケーションを図り、講習の終盤ではシニア・プルーイットが講師に直接質問する、積極性も生まれた。
 海上自衛隊と米海軍の共同運用は、訓練から任務にまで幅広く至る今日、下士官同士の交流も盛んに行われるようになった。海上自衛隊内の、いわゆるリーダーシップ教育へ米海軍の隊員を招き入れたことは、教育分野での交流へ向けた大きな一歩であり、より密接な日米共同運用の可能性を感じさせるものであった。海上自衛隊側の受講者にとって、文字通り身近に米海軍の存在を感じながら過ごした5日間の成果が、先任伍長として勤務していく日常にも浸透したとき、本講習の多様性の新たな芽吹きになったと言える。

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