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自衛隊ニュース   993号 (2018年12月15日発行)
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読史随感
<第19回>
神田淳
山岡鉄舟 すばらしい日本人

 山岡鉄舟(山岡鉄太郎1836‐1888)は幕末・維新の偉人。江戸無血開城の立役者、明治天皇の侍従、剣・禅・書の達人として世に知られている。
 鉄舟は、六百石取りの旗本小野朝右衛門高富の四男として本所に誕生。父が飛騨高山の郡代に任ぜられ、少年期を高山で過ごす。父の死後江戸に戻り、剣術修業に明け暮れる。
 鉄舟は33歳の時、歴史の檜舞台に登場する。1868年、「鳥羽・伏見の戦い」で薩長の新政府軍に敗れた将軍徳川慶喜は、江戸に逃げ帰る。新政府軍は駿府に到着して江戸城総攻撃を決定。何としても朝敵の汚名を避けたい慶喜は、絶対的恭順を決意。恭順の赤心を新政府軍大総督府に伝える役を、護衛高橋泥舟(鉄舟の義兄)の進言を得て、山岡鉄舟に託す。
 慶喜に呼ばれ、主君の堅い恭順の意志を確かめた鉄舟は、決死の覚悟で駿府に向かい、大総督府の参謀西郷隆盛との乾坤一擲の談判に臨んだ。そして、城を明け渡すこと、兵器を渡すこと、軍艦を渡すこと等5箇条の恭順の実効が示されれば慶喜に寛典が下される約束を取り付け、慶喜に報告。慶喜の歓びはたとえようもなかった。
 続いて江戸に進駐した西郷隆盛と勝海舟との間で史上名高い会談が開かれる(鉄舟はこの会談に同席)。こうして江戸無血開城は、西郷と勝だけではなく、事前に鉄舟の働きがあって実現した。
 維新後徳川家は駿府藩主(後静岡藩知事)となり、旧幕臣とともに駿河国に移住する。鉄舟は藩の幹事役(後に権大参事)として、混乱する藩を治めた。旧幕臣を帰農させ、茶園の開墾などを進めた。
 鉄舟は、37歳のとき新政府の強い要請を受けて、明治天皇の侍従となった。鉄舟の人格を深く認める西郷が、若い天皇(21歳)の教育係として鉄舟を宮中に推挙した。
 鉄舟は53歳で死去した。坐禅を組んだままの大往生であった。
 山岡鉄舟は、剣と禅で人間を形成した。剣は幼少の頃より諸師について、すさまじいまでの修業に明け暮れた。鉄舟は剣に心身の錬磨と絶対的な精神の安定を求めた。そして45歳の時、大悟して一刀正伝無刀流を開いた。
 禅は、武道を全からしめるには剣と禅の修業の他なしと父に教えられ、13歳の頃から始めた。20代の鉄舟は、昼は剣術、夜は坐禅という生活だった。三島の龍沢寺星定和尚に参禅し、40歳の頃大悟、なお天龍寺の滴水和尚に師事し、45歳の時、印可を得た。
 山岡鉄舟の剣・禅の修業で到達した人間力は衆に抜きん出ていた。勝海舟は「山岡は明鏡のごとく、一点の私ももたなかった。だから物事に当たり即決しても豪も誤らないーーー」と評している。西郷は鉄舟のことを、「命もいらぬ、名もいらぬ、金もいらぬといった始末に困る人」と言い、「本当に無我無私の忠胆なる人とは山岡さんのごとき人でしょう」と評した。滴水禅師は鉄舟のことを、「あれは別ものじゃ」と答えるのが常だった。
 私は山岡鉄舟のような人格を生んだ、当時の日本の文明度の高さを思う。鉄舟は情の人でもあるが、たぐいまれな正直とそこから来る強靭な全人格的理性を感じる。そして鉄舟の理性は、いわゆる近代的理性を突き抜けていると思う。
 (2018年12月3日)

神田 淳(かんだすなお)
 高知工科大学客員教授
 著作に『すばらしい昔の日本人』(文芸社)、『持続可能文明の創造』(エネルギーフォーラム社)、『美しい日本の倫理』など。


よせがき
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優秀隊員に選ばれた理由
第33普通科連隊(久居) 陸士長 奥西 勇介
 私は、平成27年3月31日に第33普通科連隊に配属される事になりました。そして、新隊員教育隊を経て、平成27年9月に第4中隊に配属されました。中隊に配属された時は、右も左も分からない状態で生活が始まりましたが、中隊の雰囲気や何かを成し遂げる団結の強さを身に染みて感じ、自分自身第33普通科連隊第4中隊に配属され、とても良かったと思いました。
 今回の師団訓練検閲では、全ての中隊が敵に押される中、第4中隊は火力を発揮し、敵の前進を遅らせる事が出来ていたと思います。師団訓練検閲で私は、通信手として活動しており、有線構成を終えた後、他小隊を含む同僚隊員と共に、前進してくる敵を陣地で迎え撃っていました。平素は、迫撃砲小隊として活動していますが、迫撃砲小隊が前線で戦う事は今までの訓練では経験した事がなく、軽火器として前線で戦闘する事も無かったので、私自身本当に良い経験が出来ました。また、何人もの敵に対し、損耗を与えられたことは、部隊に貢献できたと思います。
 今までの検閲では、分からない事があれば、「何故こんな事をしないといけないのか?」と正直、疑問に思うこともありました。しかし今回の検閲では、そのようなことは一切考えず、ただ必死に頑張ろうと思いました。その結果、師団訓練検閲では優秀隊員として選んで頂けたのだと思います。また師団訓練検閲優秀隊員を頂けたのは、第4中隊の方々に支えて頂いたからこそ得られた物だと思います。今の私は、技能・知識ともに不十分ですが、この受賞に驕る事無く日々精進していきたいと思います。
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新隊員教育前期の班長を終えて
東北方面衛生隊(仙台) 3陸曹 矢間 萌
 昨年、できるならば避けたいと思っていた支援業務を付与されました。それが、平成30年度自衛官候補生課程教育支援班長です。何故避けたかったのかと言うと、人に何かを教える自信がなく怖いと思ったからです。私個人の意見として、新隊員前期の班長は、新隊員が自衛隊生活で出会う初めての上司であり、班長の言動や行動が及ぼす影響は、とても大きいと考えています。そんな重要な役割を、私が担うことができるのか、という自信がありませんでした。
 3月1日から事前教育が始まり、教育隊の統制事項の多さに戸惑い、不安が残るまま3月30日新隊員が着隊しました。新隊員の前で不安な顔を見せるわけにはいきません。そこには陸曹のプライドがありました。春季休暇まではまさに寝る間を惜しみ、持ち得る全ての知識を新隊員へ伝えていきました。それでも上手くいかないことも多く、悩む日々もありました。新隊員と同じく悩み、学び、大きく成長できた3ヶ月でした。
 人に何かを教える事が怖いと思っていた私ですが、3ヶ月を乗り越えることができたのは、同じ支援班長として苦楽を共にしてくれた仲間たちと、日々をサポートしてくれた班付、そして何より、私の拙い指導にいつも全力で応えてくれた可愛い班員たちのおかげです。班員たちは皆一生懸命で、大きく成長してくれました。
 今回、班長を経験できたことは私にとって大きな財産となりました。私を班長にしてくれた班員たちには感謝しています。班員たちの成長はとても嬉しく、教育修了時は感慨深かいものがありました。今後の彼女たちの幸せを願うと共に、良き上司に恵まれ、部隊で活躍してくれることを期待しています。私も彼女たちに恥じないよう、より一層職務に邁進していかなくてはと思っています。
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自衛官となり変わった自分
国分駐屯地 2陸士 小薄 賢太
 自衛官候補生として入隊し、前期と後期の6ヶ月の教育を経て自衛官となりました。自分を振り返って感じることは、物事を深く考えることが多くなったということです。
 自分の身の回りについて考えるのは勿論、世の中での事件・災害についてのニュースを見て、その被害を見る度に、自分や家族が当事者となった時、何が出来るかを考えるようになりました。これまでの自分に比べると自衛官となり、少しずつ変わっているのだと思います。今後、新隊員教育で習った作業基礎の知識を忘れず、今部隊で習っている車両整備も併せて錬磨し、有事の際に役立つ自衛官として成長していこうと思います。

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