防衛ホーム新聞社・自衛隊ニュース
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自衛隊ニュース   987号 (2018年9月15日発行)
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近間から遠間から
桑沢 慧
「らしさ」に徹し、貫いた生涯
 今、目の前で講演をしているのは、本当に24年前に初めてテレビで見たあの人なのだろうか。大勢を前に優しげな笑顔を絶やさず話をする様子はまるで小・中学校の校長のようだ。何より違うのはその眼だ。野生むき出しの両眼からは、画面を通して殺気が伝わってきた。継ぎはぎの軍服、軍帽に白い布が巻かれた軍刀を携え、直立不動で敬礼をしていた姿と、目の前にいるにこやかなスーツ姿とのあまりの落差に、私は困惑していた。
 平成10年10月10日、明治神宮の杜にある武道場至誠館の開設25周年を祝う奉告祭で、一堂に会した各科の門人たちを前に記念講演をするのは小野田寛郎。終戦から29年もの間、フィリピンのルバング島に潜伏し続け、昭和49年に帰国した元陸軍少尉だ。昭和19年12月、ルバング島に派遣された小野田は、同島が敵に占領されても日本軍が反撃に転じた際の再上陸地点を確保するため、たとえ一人になっても島を占領し続ける残置諜者と呼ばれる極秘任務を帯びていた。翌年3月、同島の守備隊約200名は小銃以外満足な武器もないまま、戦車を擁する米海兵隊一個大隊に上陸され、4日間で組織的戦闘は終結。小野田は敵に遊撃戦をしかけるため3人の部下とともに密林に潜んだ。5ヶ月後の終戦を伝えるビラが撒かれても敵の謀略と疑い、日本からの捜索隊が出てくるよう呼びかけても応じず、部下が戦死して孤立無援になってもひたすら任務遂行のため戦い続けた。
 小野田寛郎は大正11年和歌山県生まれ。中学卒業後の昭和14年に貿易商社員として中国へ渡る。20歳の徴兵前に退社し2等兵で入隊後、予備士官学校へ入校。中国語が堪能なことから諜報員を養成する陸軍中野学校の、浜松にある二俣分校に送られ遊撃要員として教育を受けた。中野学校では「生きて虜囚の辱めを受けず」が常識の日本軍とは逆に「死ぬなら捕虜になれ」と教えられた。捕虜になり敵に偽情報をつかませ作戦を有利に導くためだ。天皇や軍部、政府のためではなく、日本民族を守るために万難を排して生き抜く。密林で小野田を支えた精神力は、戦中の価値観を覆す中野学校で育まれたのかも知れない。
 「小野田さんの下の名前は、カンロウと呼ぶんですか?」「ヒロオだ」「ヒロオ? へーぇ、日本語ってむずかしいですね」60歳で敵のレーダー基地に突撃すると決めていた小野田が51歳で日本に生還するきっかけを作ったのは、鈴木紀夫という24歳の青年だった。敵のスパイと疑い撃ち殺す腹だった小野田の心を開かせたのは、まず靴下にサンダル履きという、現地人はしない彼の奇妙な格好。さらに小野田の出没しそうな場所で野営する大胆さの反面、目的は小野田の救出ではなく、新聞をにぎわす日本兵の生き残りと話をしたら帰るつもりだった、というあきれるほどの無邪気さだった。そして、上官からの任務解除命令があれば出て行くという小野田の言葉に従い、鈴木はかつての上官、谷口義美元少佐を連れて再訪。昭和49年3月9日、谷口元少佐は「全任務ヲ解除サル」という命令書を小野田の前で読み上げ、彼の長い戦争に終止符が打たれた。しかし帰国後の小野田は高度経済成長の只中で拝金主義になり下がった祖国に失望し、一年足らずでブラジルに移住、牧場経営に挑み4年間で軌道に乗せた。馬に跨り牛を追う姿にはあの衝撃的な日本兵の雰囲気は欠片もなく、カウ・ボーイになり切っていた。そんな小野田が再び日本を守るべく始めたのは、子供たちに自然との共生を教えるため平成元年に福島県で開いた「小野田自然塾」だ。私が校長のようだ、と感じた小野田は自然塾で子供たちを教える塾長だったのだ。
 「大切なことは<らしさ>です。らしさとは自分の役割が何であるかを把握し、責任を持って遂行することです」軍人、牧場主、塾長と同じ人物とは思えぬほどその時々の役割に徹し、命がけで責任を果たしてきた小野田の生き様に、私は人生の極意を見る思いがした。
  
桑沢 慧(くわさわけい)
 明治神宮武道場至誠館剣道科出身のフリーライター。これまでセキュリタリアン(防衛弘済会)、歴史群像(学研)などに執筆。
自衛隊での経験は必ず活かされる

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(防衛ホーム英語教室)
It's nothing urgent!
イッツ ナッシング アージェント
全然急ぎじゃないでしょ!

Hi! How are you doing? 皆さん、お元気でしょうか。秋空が広がり、さわやかな風が吹くようになりました。日一日と気温が下がっていくのが実感できます。涼しくなるというより、北海道では寒くなるという感じでしょうか。防寒の処置も必要ですね。被災地の一刻も早い復旧を心から祈念しております。また、災害派遣に日夜過酷な条件のもとで従事された隊員の皆様、改めて感謝申し上げます。ありがとうございます。

 さて、今回の表現は、"It's nothing urgent!"「全然急ぎじゃないでしょ!」です。仕事やイベントが重なってくると自分のことだけで精いっぱいになってしまうことが多いですね。自分の計画はびっしりと詰まっていて、一所懸命頑張っているところに、予定外のことが入ってくると大変です。できるかできないかは、しっかりと相談して、決めることが肝心です。しかし、英語でいわれると、断り切れないところがあるのではないでしょうか。そんなときは、きっぱりとこのフレーズでダメ出しをしてみてはどうでしょうか。日本語では、きつく聞こえますが、英語では、できるかできないかをはっきりさせるという意味で有効な表現です。そこから調整が始まります。あいまいな態度で対応するよりも前向きといえます。

 涼しくなりますが、体はすぐには反応できません。また、天候も急変することもあります。体をいたわりながら、秋を実感していきましょう。一日一日を大切に、陽気でストレスの少ない日々をお過ごし下さい。それでは、皆さん。See ya!
<スワタケル>


「頑張っています」新しい職場
 東京海上日動火災保険(株) 徳山損害サービス課 渡部 理
渡部氏は、平成29年10月に航空自衛隊第12飛行教育団飛行教育群第1飛行教育隊を
2等空佐(特別昇任)で定年退官。55歳(記事作成時)
 私は、平成29年10月29日に航空自衛隊第12飛行教育団において教官操縦士としての職を最後に定年退職し、その翌日より、東京海上日動火災保険株式会社徳山損害サービス課において勤務しています。
 退職が近づくと、再就職に関する希望調査が行われ、具体的な職種、職業の選択を迫られます。現役の皆さんは、自分の退職後の姿というのは想像しにくいと思いますが、私もそうでした。私が再就職に際して希望したことは、小学6年生になる双子の息子達の教育やその後の進路に積極的に関われることに加えて、人の役に立つという実感が得られる仕事に就きたいということでした。このような希望を基地援護室に伝えたところ、自宅から通勤可能な場所に損害サービス主任という求人を紹介していただき、希望に沿った再就職を実現することができました。
 主な業務は、交通事故において怪我をされた方に対する治療費のお支払いや、損害賠償額の算定、交渉などです。私は保険に関する知識は皆無でしたが、入社時には新入社員のための研修が用意されており、その後も、知識と経験に応じた段階的で手厚い教育が行われます。また、抱えている疑問等を気軽に相談し、適切なアドバイスが得られる環境であるため、安心して働ける職場です。
 弊社は、全ての人や社会から信頼される良い会社「Good Company」を目指し、社員一丸となって、お客様に安心をお届けし信頼が得られるように日々の業務に取り組んでいます。私もその一員であることに誇りと自覚を持ち、事故に遭われたお客様に安心していただくことを心掛けながら業務に励んでいます。
 退職時期が近づくにつれて不安な思いをされている方は多いと思いますが、自衛官として培ってきた行動や考え方は、人として、社会人としてのそれと齟齬はなく、それぞれの職務を全うしてきた経験と知識は、自衛隊以外の職場においても、必ず活かされると思います。自信をもって再就職に臨んで下さい。

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