防衛ホーム新聞社・自衛隊ニュース
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自衛隊ニュース   1009号 (2019年8月15日発行)
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読史随感
神田淳
<第35回>

鎌倉武士の女性尊重

 鎌倉武士北条重時(1198-1261)の遺した家訓から、この時代、武家において女性が尊重されていたことがうかがえる。北条重時は鎌倉幕府3代執権北条泰時の弟で、京都にある六波羅探題の北方(長官)を務めるなど、兄を補佐して幕府の要職を歴任した。この重時が「極楽寺殿御消息」という家訓を遺している。
 この家訓で重時は「妻は一人を定めるべきである。一夫多妻は罪深いことである」と言う(要点のみを現代語訳)。一夫一婦は現代では当たり前であるが、当時の東アジアにおいてはそうではない。貧しい平民(匹夫匹婦)は一夫一婦であったが、上流階級は一夫多妻が当たり前であった。日本でも公家は一夫多妻であった。しかし重時は家訓として一夫多妻を禁じている。
 また家訓に言う。「女性は成仏し難いなどというが、そんなことはない。法華経に女性が成仏した例はたくさんある。特に女性はこころ深いので、一心に念仏すれば極楽往生することは間違いない」。重時は、女性はこころ深い(思慮深い)と言っている。
 また、言う。「妻子の言うことはよくよく聞くべきである。道理に合わない場合は、女わらべのならいと思い、道理を言う場合は、以後このように何事も聞かせよ、と励ますのがよい。女わらべといやしんではならない。天照大神も女体である」。
 こうした家訓から北条重時の、現代の日本の男をはるかに上回るフェミニストぶりを感じるが、こうした精神はひとり重時のものだけではなく、鎌倉武士に共通していた。源頼朝とともに鎌倉幕府をつくりあげた妻・北条政子は、頼朝が他に女性をもつことを許さなかった。頼朝は武家の棟梁とはいえ貴種であり、一夫多妻に何の抵抗ももたなかった。しかし東国の武家で育った政子は、武家たるものは一夫一婦たるべしという、ゆるぎない規範意識をもっていた。
 鎌倉時代、所領の相続に関し、女性は法的に男性と同等の権利が与えられていた。当時の法である関東御成敗式目(貞永式目)は、女子の相続権について次のように定めている。「男女は異なるといえども、父母の恩は同じである。女子は所領を持参して他家に嫁ぐことがあるが、男子と同様に女子にも所領の相続を認める。そして親は生きている間、相続者が息子であろうと娘であろうと、譲った所領に対して『悔いかえし』する権利をもつ」。「悔いかえし」とは、譲った所領を思い直して取り上げることである。
 また、妻が夫から所領を相続する場合もある。夫が譲状を妻に渡したあと、離婚した場合、夫は「悔いかえし」ができるか。この場合貞永式目は、妻の方に重要な過失等があって離婚になった場合は別だが、そうでない場合、夫による「悔いかえし」はできないと定めている。そしてこうした妻の権利は妾にも認められていた。
 鎌倉時代、所領の相続に関し男女同等の権利を保証した貞永式目は、古代の律令や現在の日本国憲法などと異なり、外国由来ではなく、当時の日本の武家社会の慣習、規範、生き方から生まれた純粋な日本人の法である。
 女性の地位について考えるとき、鎌倉時代という中世において、日本は世界的に女性の地位の高い社会だったとの思いをもつ。
(令和元年8月15日)

神田 淳(かんだすなお)
 高知工科大学客員教授
著作に『すばらしい昔の日本人』(文芸社)、『持続可能文明の創造』(エネルギーフォーラム社)、『美しい日本の倫理』など。


師団訓練検閲 親子3組が参加
<41普連>
 第41普通科連隊(連隊長・山田憲和1陸佐=別府)は、令和元年6月10日〜6月17日の間に実施された第1次師団訓練検閲を受閲した。現在連隊内には、4組の親子が自衛官として在籍しているが今回は、3組の親子がこの師団訓練検閲に参加した。
 入隊の動機は様々であるが、子は親の姿に憧れて、また親からの勧めもあり自衛隊に入隊し、縁があって同じ駐屯地、同じ部隊に配置された。親としては、子供の職場や訓練の様子が気になるが、同一部隊に勤務している事もあり、たまに見かける我が子の訓練や作業の様子を見るたびに、自衛官としてまた1人の社会人としての子供の成長を感じることができ、嬉しく思っている。しかし、その反面、自分も子供に訓練や作業の様子を見られているかもしれないと、気が抜けないところもある。
 今回の師団訓練検閲参加にあたり3組中1組の親子である工藤親子(父‥第3中隊迫撃砲小隊・工藤卓哉1陸曹、子‥重迫撃砲中隊通信手・工藤令奈1陸士)=写真=によれば、初めての戦闘団検閲という事もあり色々な不安があった子供は父親に「演習で持って行った方が良い物や、便利な物は何か」と聞く等父に相談したと言う。それに対し父は、「時期的に雨対策や寒さ対策は特にしっかりやったほうが良いよ」と子供の体を気遣うアドバイスを行った。また入隊してからの子供に対しての感想を父親に聞いたところ「頼りないところもあったが、最近責任感がでてきた。しかし、まだまだ、半人前であるので、素直な気持ちで、訓練や業務に励んでもらいたい。これからも、見守っていきたい」と語ってくれた。
 戦闘団検閲間、親子は戦場で顔を合わすことは無かったが、同じ作戦・目標に向かい、それぞれの中隊で、それぞれの役職で与えられた任務に邁進する親子の姿を見る事が出来た。

先人たちに敬意を表して記念碑を清掃
<高田駐屯地>
 陸上自衛隊高田駐屯地近傍の上越市南新町(現在は市営団地及び市立城西中学校のある一帯)は、かつて陸軍歩兵第58・30・130連隊の兵営があり、明治の昔、オーストリア・ハンガリー帝国軍人のレルヒ少佐が勤務しスキーを伝えたところとしても知られる。陸軍兵営は戦後、進駐米軍が、その後は引揚者などが市営住宅等として利用していた。昭和43年、兵営の老朽化に伴い鉄筋コンクリート作りの集合住宅に建て替えられることとなり、歩五八会(歩兵第58聯隊戦友会)から兵営跡地の記念碑建立の声が上がり、同じく兵営とした歩兵第30連隊戦友会も同意し記念碑の建立となった。
 記念碑の除幕式は昭和44年8月3日、それぞれの戦友会員、地元各界有識者ら約1000名が臨席し盛大かつ厳粛に行われ、高田駐屯地音楽クラブの演奏で式典に華を添えた。
 建立後の記念碑の維持・管理は戦友会員が行っていたが、平成から令和へと時代が移り戦友会員の多くが亡くなり、何時しか手入れがなされない状態となっていた。
 かねてから高田駐屯地司令の庭田徹1陸佐は、「高田駐屯地に勤務するものとして郷土上越市に関心を持とう」「修親会、曹友会の活動を活発にしよう」との指導と、駐屯地司令自ら「歩兵第58・30・130連隊兵営跡記念碑」に関心を持ち、今回、高田駐屯地修親会をもって長年行われなかった記念碑の清掃を行うこととなった。
 奇しくも第1回目の清掃実施日は令和元年8月3日で、記念碑の除幕式の昭和44年8月3日から丁度50年、半世紀となる節目の日だった。朝から30度を越える猛暑の中、高田駐屯地業務隊及び諸隊の修親会員15名が朝8時30分に集合し石碑磨き・植木剪定・ごみ拾い・石材補修等を行い、途中、駐屯地司令と最先任上級曹長の吉原准陸尉も参加して記念碑の長年の汚れを洗い落とした。町内会の皆さんから飲み物の差し入れを受け、またこの記念碑に関連する五八神社(地元の人が呼んでいる歩兵第58聯隊にまつわる神社)に案内され、参加者全員で参拝し、第1回の記念碑清掃を終えた。今後、修親会員が各四半期に1回を基準に清掃を続けていく予定である。

女性隊員を含む新隊員17名 化学科隊員目指して奮闘中
<中央特殊武器防護隊>
 中央特殊武器防護隊(隊長・松原泰孝1陸佐=大宮)は7月2月、令和元年度新隊員特技課程「化学」及び第12期一般陸曹候補生課程後期「化学」の教育開始式を挙行した。今教育では、中特防新教初となる女性隊員7名を含む17名の新隊員が化学科隊員となるための教育を受ける。
 新隊員達は、北富士演習場において中央特殊武器防護隊が実施した「有毒化学剤に汚染されたFH-70の検知・除染訓練」を研修して化学科部隊の重要性を認識した。
 器材教育では、有毒化学剤を検知する化学剤検知器2型や放射線強度を測定する線量率計セット等の操作要領を修得、また猛暑の大宮駐屯地において化学防護衣と防護マスクを着用して化学活動の教育を受けており日々、化学科隊員として必要な資質を身に付けている。本教育は9月14日まで実施される。

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