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自衛隊ニュース   977号(2018年4月15日発行)
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神奈川隊区の担当を開始
東部方面混成団本部
 東部方面混成団本部(団長・瀬戸山昭臣1陸佐=武山)は3月27日0時より神奈川警備隊区の担当部隊となった。これまでの神奈川県の警備隊区は、第1師団長の下、隊区長を第31普通科連隊長とし、県東分区を第31普通科連隊、県央分区を第4施設群、県西分区を第1高射特科大隊が担当していた。混成団本部(混成団長)については、第117教育大隊と共に31連隊に協力・支援を任務としていた。この度の隊区担当部隊の移管により、東部方面混成団長が隊区長となり、第1師団長の下、各分区を担任する3個部隊の指揮を執ることとなった。
 東部方面混成団本部では、隊区担当開始に先駆けて昨年8月1日より訓練科に防衛班を設置、災害派遣基本計画の整備、関係自治体、諸団体と綿密な調整を行う等、着実に準備を進めてきており、満を持しての担当開始となった。
 本格的な春の訪れを感じさせる陽気の3月26日、神奈川県庁では県旗の授与式が行われた。柴田第1師団長臨席のもと、厳かな空気に包まれた式場では、まずこれまで隊区を担当してきた31連隊(連隊長・矢野哲也1陸佐=武山)に感謝状が贈られ、県旗の返還が行われた。その後、中央に県章があしらわれた真新しい純白の県旗が浅羽義里神奈川県副知事(黒岩祐治神奈川県知事代理)より東部方面混成団長に託され、東部方面混成団本部の新たな任務がスタートした。
 東部方面混成団は、神奈川県民の生命・財産を守るという重責を担い、東部方面混成団は団長以下全隊員決意を新たにし、任務を完遂すべく、万全を尽くす、としている。

鎮西機動師団
新生8師団始動
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第42即応機動連隊
 第42即応機動連隊(末永政則1陸佐=北熊本)は、3月27日、北熊本駐屯地第一訓練場において、連隊改編行事を行った。
 改編行事には、第8師団長・吉田圭秀陸将をはじめ、北熊本駐屯地に所在する各部隊長、連隊後援会副会長、連隊OB会会長、OB会副会長が倍列し、連隊の隊員が参列した。
 第42普通科連隊は、昭和37年創隊以来、第8師団の旗本連隊「尚武の地 熊本」において地域への貢献に努めたが、第8師団の機動師団化改編に伴い、55年の歴史に幕を閉じた。
 第8師団長は、訓示において「即動し強靭な戦闘により師団の作戦に最大限寄与せよ」「諸職種共同の実を挙げよ」「勤倹尚武、42連隊の伝統に8戦魂、8特魂を注入し、新たな組織文化を初代末永連隊長を核心として作り上げてもらいたい」と述べ「改編、即戦力化により作戦運用の実行を極大化し、国民の負託にこたえよ」と命じた。
 「第42即応機動連隊」は、普通科近接戦闘機能を核として、特科(火力支援中隊)、機甲科(機動戦闘車隊)、等を初めとする諸職種を包含した陸上自衛隊初の「即応機動連隊」として、あらゆる事態に即応すべく高い即応展開能力及び対処能力を保持し、離島防衛の第一線連隊としての任務に備え、日々厳しい訓練を積み重ね、日本一の精強連隊を目指す。
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西部方面特科連隊
 西部方面特科連隊(連隊長・井上亙1陸佐=北熊本)は、3月27日に全国各師団、旅団に先駆けて第8特科連隊から西部方面特科連隊に新編された。新編までの間、上級部隊及び関係部隊との調整を実施し、隊員に対する教育、装備品の補給、管理換や訓練環境の整備等を行ってきた。
 大隊旗等授与式において、連隊長訓示で、隊員に対し「本日から西部方面特科連隊がスタートした。新たな舞台で人材の育成をし、新たな一歩を踏み出して前を向き、互いに戦力化していこう」と強い思いを述べた。
 また、3月31日、北熊本駐屯地で行われた自衛隊旗授与式では、福田達夫防衛大臣政務官より連隊長へ自衛隊旗を授与され、「諸君は国民の多くの期待を担って新たに生まれ変わった。各部隊指揮官の下、強い使命感をもち任務に邁進することを心から期待する」と訓示が述べられた。
 西部方面特科連隊は、今まさに始動したが、国防最前線機動師団に、平素隷属した任務部隊として即応し、連隊長要望事項でもある「任務の完遂」のために「日々前進」していく。

読史随感(第3回)
民主政治におけるポピュリズム
 チャーチルは、「民主主義は最悪の政治体制である、過去に試みられたそれ以外の政治体系を除けばのことだが」と言った。これは、民主主義が最高の政治体制だと言っているのだが、民主主義の問題点を熟知した発言である。
 最大の問題点は、民主主義が本質的にもつポピュリズムに支配されることだろう。古代ギリシアのプラトンは、ソクラテスを死刑にしたアテネの民主政治を衆愚政治として否定し、哲人政治を説いた。第2次大戦でドイツを破滅させたヒトラーのナチスも、議会で正当に支持されて生まれた政権だった。国民はヒトラーを熱狂的に支持した。
 実は日本の政治も、戦前からポピュリズムに支配されていた。日本のポピュリズムは、日露戦争の講和を不満とする民衆の日比谷焼き討ち事件に始まり、普通選挙の開始後本格化した。そして軍部を台頭させ、日米戦争に導いたのはポピュリズムだった。
 普選後大衆受けに腐心する政党の党利党略に幻滅した国民は、中立的な軍部、官僚を支持するようになった。しかし軍部も常に世論を意識して行動した。国民は関東軍による満州事変、満洲国建国を熱心に支持した。国際連盟を脱退して帰国した松岡洋右を、英雄として歓呼の声で出迎えた。
 政党政治を批判するばかりのマスメディアも問題だった。それは、新体制といった非民主的な体制と軍部の独走を生んだ。一番悪かったのは、日中戦争勃発後軍部が新聞報道を統制したことだったが、これに抵抗する新聞社はなく、生き残るため、自ら戦争を煽った。全紙が軍部のプロパガンダ紙と化し、発行部数を飛躍的に伸ばした。
 新聞を信頼する国民は軍部を支持し、日米戦争に行きつく。敗戦後戦争責任はすべて軍部に帰したが、責任は国民とマスメディアにもあった。戦争支持の国民的熱狂に支配された昭和の魔性の歴史をつくりだした正体は、ポピュリズムだった。
 しかし、新聞が戦争責任をとることはなく、終戦直後から「戦争は終わった、これからは民主主義だ」といった論調に豹変した。ジャーナリズムとは所詮そんなものだが、それでも戦前、軍部の弾圧に決して屈せず、自由主義的論説を書き続けた桐生悠々や、石橋湛山のような気骨あるジャーナリストがいたことを、われわれは忘れない。
 メディアによる異常な人気をもつ近衛文麿は、ポピュリストだった。戦前、議会政治が始まって以来、ポピュリズムに無縁な政治家として、原敬がいる。この大政治家が暗殺されていなければ、日本は政党政治を確立して、日米戦争の悲劇に至らなかったかもしれない。戦後の首相でポピュリズムに無縁な政治家として、吉田茂と岸信介をあげたい。
 世界でもポピュリズムが問題となっている。日本では、戦前のポピュリズムのまま今に至っており、戦前国を破滅させた政治におけるポピュリズムを、戦後日本は克服していない。ポピュリズムを克服するものは、政治家の国に対する責任感、ジャーナリストの事実と真実の報道(論評ではない)に徹する使命感、そしてわれわれ国民がそれを見抜く力をもつことしかないだろう。
(2018年4月10日)
  
神田 淳(かんだすなお)
 高知工科大学客員教授
 著作に『すばらしい昔の日本人』(文芸社)、『持続可能文明の創造』(エネルギーフォーラム社)、『美しい日本の倫理』(https://utsukushii-nihon.themedia.jp/)などがある。

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