防衛ホーム新聞社・自衛隊ニュース
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自衛隊ニュース   968号 (2017年12月1日発行)
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肌で感じる!
〜誓いをあらたに〜

御巣鷹山野外行動訓練
飛行点検隊
 航空自衛隊航空支援集団飛行点検隊(司令・吉廣敏幸1空佐)は、災害派遣等を想定した野外行動能力の向上を図り、任務遂行に必要な体力及び気力の向上を図るとともにJAL123便航空事故の概要及び事故・慰霊現場を辿ることにより、使命感、責任感及び安全意識の高揚を図ることを目的として「慰霊の園」を含む群馬県多野郡上野村御巣鷹山周辺で「御巣鷹山野外行動訓練」を行った。
 これにより、特に、「飛行安全に係る安全意識」を、事故現場を行動することにより肌で感じさせ、更に高揚させ、航空事故は2度と起こしてはならないと改めて誓った。(前号11/15続き所感文2回目を掲載します)
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航空機整備班 須田 淳一2空曹
 ジャンボジェット機が墜落し500人以上の死亡者を出した日航機墜落事故が起きた時、小学生だった私にとって、1985年8月12日のこの出来事は衝撃的でした。
 テレビでは、連日事故現場の映像が映し出され、自衛隊のヘリに救出される少女の映像は、今でも鮮明に目に焼き付いています。
 偶然にも私は、航空自衛隊に入隊し航空機整備員として勤務してきました。安全活動において、日本航空安全啓発センターへの研修に参加もしましたので、御巣鷹山への野外行動訓練は、是非とも参加したいと考えていました。
 訓練当日は、車両にて現地へ向かい駐車場からはそれほど歩くことなく慰霊碑のところまで行くことができましたが、事故当時は、道のない山肌を辿り、捜索活動を行った消防、警察、自衛隊の諸先輩方の苦労は計り知れないものと感じました。また、森の中でなぎ倒され焦げた巨木や、あちらこちらに並ぶ多くの墓標を見ると、ここが悲惨な事故現場であることを再認識させられました。
 山腹頂上にある「昇魂之碑」に献花と合掌をしていた際に、日本航空の研修生も慰霊登山に訪れていることに気付き、この事故についての話をすることができました。日本航空が事故後30年以上たった今も、企業全体で安全活動に取組む姿を目の当たりにしました。
 我が飛行点検隊も昨年、U-125航空機の大事故があり、尊い6名の命と航空機1機を失いました。二度とこのような悲惨な事故を起こさないためにその誓いを新たにするとともに、この御巣鷹山の現地訓練は、大変意義のあるものでありました。
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電子整備班 冨永 敦裕1空士
 私は、自衛隊に入る前まで日航機墜落事故のことは名前すら知りませんでした。自衛隊に入り、教育隊で事故の教育を受けたときも、雫石の航空事故の方に衝撃を受け、それほどこの事故についてはあまり印象には残りませんでした。しかし、乗員524名中死者520名、生存者わずか4名という大事故の実際の墜落現場を見て、事故の傷跡を目の当たりにし、その凄惨さに衝撃を受けました。
 現場へ向かう山への入り口には、慰霊者登山用の杖がおいてありました。高齢者の方のためなのかなあと思いました。登山中は、現地の案内の方から事故についての説明を受けながら登り、道中に熊よけの鐘が設置されている山中の不気味さの中で、山腹頂上付近の昇魂の碑に到着しました。
 昇魂の碑は、周辺がぽっかりと穴が空いたような場所で見晴らしがよく、U字溝がよく見えました。U字溝とは事故航空機が墜落する直前に機体が木を擦った部分で、その箇所はほかの木々に比べ、明らかに低くなっていました。30年以上経った今もその傷跡は消えていないその風景を見て、事故の悲惨な状況が頭の中を駆け巡りました。
 昇魂の碑には、すでに日本航空の職員が研修に来ていました。その研修生たちは皆若く、私のように墜落事故のことを知らない者もおり、昇魂の碑で涙している方もいました。また、昇魂の碑の近くにある遺品が集められた小屋の中の空気はとても重々しく、置いてある遺品に亡くなられた方々の無念が宿っているかのようでした。そして、520名もの墓標を見ながらの下山中、そこには重々しい空気が漂い、普段なら心地良いはずの美しい自然の風景や穏やかなせせらぎの音が余計に私の悲しさを助長しました。
 日航機墜落事故は航空機事故の中で、世界的にも最大の事故であり、520名もの尊い命が失われた事故です。自分も航空機整備に関わる一人として、昨年起きた我が隊のU-125航空大事故のような悲劇が2度と起こらないようにしていかなければならないことを強く認識し、自分の任務を果たさなければならないという誓いを新たにしました。
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電子整備班 山本 峻輔3空曹

 御巣鷹山への野外行動訓練の前日、事件の詳細についてインターネットを使い情報収集を試みた。毎年同じ報道がされているにも関わらず、私はその時になって初めて事故について無知であったことに気づき、自分を恥ずかしく思ったからだ。事故の詳細について調べていく内に実際の状況を再現した映像を発見し、その凄絶さに衝撃を受けた。
 翌日夜が明け、御巣鷹山野外行動訓練を予定通り実施した。集合時まだ朝6時過ぎだというのに気温は高く、これからさらに高くなると思うと思わずため息が漏れた。最初に慰霊碑を訪れ、そこにある資料館を見て回った。そこでは事件当時の現地の地方自治体や住民の忙しさや慌ただしさが鮮明に記録されており、当時の状況が実際に伝わってくるようだった。事故の悲惨さに目を囚われてばかりだったが、こういった地面に根をはったような現実の状況も強く心に残った。
 その後、本来の目的地である御巣鷹山の登山口入り口に到着した。その際に朝に感じた熱気が嘘のように感じられるほどの涼しい空気を感じた。太陽光線が、徐々に現れ始めた積乱雲に遮られ始めたこともあるが、それでも急な気温の変化だった。その変化とともに我々は自然と気が引き締まっていった。誰もが先ほどまでとは何かが違うと感じ取っていた。
 上野村のガイドの方の案内もあり、無事に事故現場付近までたどり着きそれぞれがその場で瞑目し、御霊への礼儀を尽くした。
 昨年の我が隊の航空事故当時を思い返すと、我が隊の隊員であったならば、なおさら礼儀を尽くすであろうと、私は思った。飛行点検隊においてこの事故は他人事ではない。それを全員が感じているからこその鎮魂の祈りであった。
 ガイドの説明とともに、前日に見たネット情報の映像を現地で思い返し、未だにその名残を見つけることができ、胸が締め付けられるような思いだった。私も事故絶対に起こさぬように、整備業務に全身全霊で取り組まなければならないと改めてこの場所において誓った。
 慰霊を終え下山する際に、多くの墓標を通り過ぎた。墓標の前に供えられた写真には、どれも笑顔が溢れ、幸福な様子が写し出されていた。そこで特に印象に残ったのは、赤ちゃんを抱える男性の古びた写真と、その隣のどこか面影を残した男性とその家族との比較的新しい写真だった。涙が溢れそうになった。
 周囲を見渡すと、事故後に植樹されたという山桜が生えていた。すでにたくましく成長しており、春には満開の花を咲かすであろうことが一目で判断できた。事故の瞬間の時間は、私たちを通り過ぎていき、多くの悲しみを生み出していったのだろう。しかし、このような悲劇の側には、素朴な現実が常に寄り添っている。優しい風に悠然と揺れる葉桜がそのことを伝えようとしていた。その中で、飛行安全への誓いを新たにしたのである。
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航空機整備班 林 英人1空曹
 8月25日の御巣鷹山への慰霊を兼ねた野外行動訓練に参加しました。
 我が隊での平成28年4月6日の航空大事故により、6名の大切な仲間を失ったこともあり、飛行安全に対しての意識高揚が図れ、非常に有意義な訓練になりました。
 この地は20年以上前になりますが、昨年の航空大事故で亡くなった先輩隊員と訪れたことのある思い出の場所でもあり、感慨深いものがありました。
 最初に慰霊の園において参拝し、慰霊碑に刻まれた乗客、乗員520名の名前を確認した際、夏の帰省や旅行のためでしょう、家族であろう同じ名字のグループが多いことに驚き、家庭を持つ私としては、大変複雑な気持ちになりました。
 その後、事故現場である御巣鷹山への登山に向かいました。登山に際しては、上野村の山守(ガイド)の方に当時の説明を受けながら現場に到着し、御霊に対し礼拝するとともに、事故調査などにおける状況説明をしていただきました。
 旅客機が制御不能になり最初に接触した山は、30年以上たった今でも主翼でえぐった深い傷が残存しており、接触時の衝撃の激しさが容易に想像できるものでした。
 下山の際、ご遺体の発見された場を縫うように下山し、広範囲な発見場所を見ると、当時の救助活動の大変さも考えさせられました。
 この訓練において、墓標の山となってしまった御巣鷹山に眠る520名の墓をたった一人で管理をして下さっている山守(ガイド)の方に敬意を感じるとともに、絶対に航空事故を起こしてはならないと改めて決意させられる有意義な訓練でありました。

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