防衛ホーム新聞社・自衛隊ニュース
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自衛隊ニュース   2011年6月15日号
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東日本大震災
災害派遣に参加して
空挺団2普大4中 2陸曹 諸隈寛和
 「こんにちは 自衛隊です。誰かいらっしゃいますか?」この一声から本格的な災害派遣任務がスタートした。我々は、福島原発事故対処のため、南相馬市原町区一帯の自主避難困難者を掌握し、市へ報告できるよう、与えられたエリアの1軒1軒に声をかけて回るローラー作戦を実施した。町は、大半の方が避難されており、すれ違う車は消防や警察くらいである。普段であれば、地元の人で賑わっているであろう商店街もシャッターが閉ざされており、ペットとして飼われていた犬は、痩せ細り野犬化しており、まさにゴーストタウン化している状態であった。訪問してみると高齢者の方が多くみられ、放射能、情報不足、燃料不足の事で不安を持たれていた。聞き取ったニーズを市へ伝え、市からもらった情報を伝える。混乱の中、市と各家庭のパイプ役となり、正しい情報を伝達出来た事、また、人と人とで会話し安心感を与えられた事は大きな成果になったと思う。
 4月18日からは、南相馬市の海岸沿いに移り、行方不明者の捜索任務に就いた。現場は、一面砂色の瓦礫の山であり、テレビでは確認していたものの、あまりの惨状に愕然とした。家が建っていた場所には基礎だけが残り、足下には私の子供と同じ年頃の写真やランドセル、「この子大丈夫だったかな?」と思うと居たたまれない気持ちになった。瓦礫の山は、人力では微動だにせず、チェーンソーやエンジンカッターで切り崩しても苦戦をしいられた。捜索活動と合わせ遺留品の回収も実施した。貴重品や写真を拾い集め、袋に小分けにし、どの地区で拾得したか記入する。沢山の遺留品が集められた。「ほんとうに、これが本人の手元に渡るのか?」と思う事があった。そんな折、東京からきたボランティアの方と話す機会があった。その方は、遺留品の仕分け作業をやっていると言うので「被災者の元に届いていますか?」と問いかけた。「毎日、展示場へ確認に来られる方もいますし、先日は、家も家族も流されたけど、息子の卒業証書が見つかり大変喜んでおられる方もいましたよ」その言葉を聞いて胸が熱くなり、私が実施していることの重さを感じた。数日後、逐次重機が配属され、捜索要領も明確化された。その内容は、側溝から3m以内の土砂を完全に排除し捜索を実施する。また、瓦礫内の捜索に当たっては、既に行方不明者の捜索を終了したエリアに、捜索のために除去した瓦礫を集積しつつ捜索する。この際、じ後の復興に向けての瓦礫の撤去が容易にできるよう、瓦礫の頂上に捜索が終了した印である青旗を立てる等であった。要領を掴み流れに乗りだした時、重機が排除した瓦礫の下から足らしきものを発見した。急いで後輩と上に被さっている物を払うと、お婆さんの御遺体であった。死を身近に感じた瞬間であり、改めて常に死とは隣り合わせで生かされているのだと強く感じた。
 震災発生から2ヶ月を過ぎた今でも、多くの瓦礫が残り、多くの方が心に傷を負われている。被災者の心を察すると「被災者の気持ちになって」など軽々しく言えないが、少しでも喜んで頂ける様、捜索活動に全力を尽くしていきたい。
空挺団本部中 3陸曹 宮本剛憲
 3月11日震災時、私は第1普通科大隊に所属していた。部隊は派遣準備を進め、福島県への前進を開始した。既に団広報班への異動内示をいただいていたこともあり、派遣される部隊の出発を見送った。「皆と一緒に災害派遣活動を実施したい」正直そう思った。
 広報班への異動は震災後2週間経ってからであった。しばらくの間は、広報室でさまざまな業務の実施要領について手ほどきを受けるものと思っていた。しかし、異動後3日目にはカメラを持ち福島県の地に立っていた。
 広報とは何なのかもわからない、広報班の皆の性格さえも掌握できていない状態で不安しかなかった。翌日から、被災地をカメラ片手に駆けずり回る日々が続いた。福島第1原発から20km〜30km圏内の要救助者の救助・輸送のため、地域の一軒一軒を訪問し、要救助者を把握する隊員、関係する機関との調整にあたる隊員にシャッターを押しつつ、「派遣活動をしたい」という思いが消えることはなかった。
 ある日、自分が撮った写真が本部庁舎の玄関先、食堂前の掲示板や駐屯地柵外の広報コーナーに掲示され、これを隊員や一般市民が食い入るように見ているという話を聞いた。理由は解らないが何故か嬉しい気持ちになった。広報班員として初めて味わう感覚であった。
 4月18日、南相馬市の行方不明者捜索の任務が追加された。これ以降、隊員は全身泥だらけになり、汗だくで懸命の捜索を実施している。南相馬市役所と南相馬市の市民文化会館の玄関に、この捜索状況と隊員の捜索活動の写真を掲示している。これを見ていた市民の方から、「自衛隊は本当によくやってくれている。素晴らしい。国の誇りだ。ありがとう」という言葉をいただいた。自分が認められたようで無性に嬉しかった。
 広報班勤務1ヶ月半、まだ、広報が何なのかを理解できているとは思わない。ただ、隊員が一生懸命に活動する姿や変化していく町並みなどを、写真を通して部内・外に伝え、自衛隊に対する国民の信頼の獲得、被災地の人々の心の安定の一助となればと思う。それが現在自分にできる唯一の広報活動であり災害派遣活動である。
 私は、カメラマンとしての腕を磨き、近い将来、また南相馬を訪れてみたいと思う。被災者に笑顔が戻り、被災地が復興を果たした場面を写真で表現し、隊員が努力した成果として伝えたいからである。隊員が自衛官であることに誇りを持ち、今後の勤務の励みとなることができた時、私の南相馬での広報マンとしての役割を終了できるものと思う。
空挺団3普大8中 陸士長 島田恭輔
 今回、私は「東日本大震災の災害派遣」で福島県に派遣されました。福島では、震災の影響は勿論、原子力災害もあり大変な状況でした。私は自衛隊に入隊し、3年目になりますが、災害派遣に参加するのは今回が初めてであり、士気高ぶる反面、当初は右も左も分かりませんでした。 私たちが福島に派遣され、一体どのような事をするのか、どのような局面に遭遇するのか、未知の世界を想像しながら、福島へ前進しました。
 さまざまな任務の中で、私は、行方不明者の捜索が印象強く残っています。津波の被害により多くの方が行方不明になられており、その方々を毎日懸命に捜索しています。もし、私の家族が行方不明者であるとするならば、私はどうしてでも家族を探し出そうとするでしょう。沢山の人に頼んででも探すでしょう。その思いを自衛隊、そして私たちに託されているとするならば任務に悔いを残すことなく、しっかりと捜索しなければならないと思います。
 頑張ろう日本。頑張ろう東北。頑張ろう福島。私は、このように力を合わせて物事に立ち向かうこの日本が大好きです。 国民の方々から沢山いただいたメッセージの中で、「自衛官は話に最終回のない国民の英雄」と書いてありました。そのいただいたメッセージのとおり、これからも日本のために頑張ります。
空挺団3普大7中 2陸曹 横田浩映
 「こんなのってないよ」「ひどすぎるよ」、あまりにも悲惨な被災の状況を目にした我々は様々な思いが心の中にあったが、まずは誰もがため息しか出なかった。「何が出来るのか自分でも判らない、だから出来ることは何でもやろう」私の災害派遣はこうして幕を開けた。
 3月11日の発災時、私は東富士演習場にいた。中隊長の的確な指示により滝ヶ原駐屯地で一泊の情報収集、翌日にはいつも3時間程度で帰隊するルートを災害発生後の交通渋滞のために13時間かかって習志野に到着、すぐさま派遣準備を行った。
 日航機墜落事故の教訓以来、「先遣隊は30分以内に出動」を教育され、また、それが当然だと思っていた我々空挺隊員。しかしながら予想外の規模の津波によって起きた様々な被害と原子力災害の発生…日本で唯一の空挺部隊を運用すべき所を決定するまで数日を要した。その間にも続々と入ってくる状況や映像、生まれて初めて「待つことの辛さ」を経験した。そして福島県への派遣、要救助者の掌握や戸口訪問、行方不明者の捜索等で、あっという間に2ヶ月が過ぎた。
 私の後輩のお父さんは、95年の阪神淡路大震災に警察官として出動し、過労で亡くなった。私は、とてもお世話になっていたし、その後輩とも仲が良かった。「どうして貴方がそこまで頑張らなければならなかったのですか?」とずっと疑問だった。自衛官に任官した時、その疑問が「分かるかもしれない」と少し思った。そして今、被災地の中で迷彩服を着て立っている私にははっきりと分かる。「この止まった時間を動かせるのが我々しか居ないのであれば、我々がやるしかないじゃないか!」
 活動していると様々な人が「大変ですね」「ご苦労様です」と声を掛けて下さる。その度に私は「皆様ほどではないですよ」と答えるようにしている。大抵の方は、その時に笑顔を返して下さる。私は少し安心する。一空挺隊員が、2ヶ月の派遣で思った事、「人間は弱い、そして強い」
13旅団13偵隊 2陸曹 鎌田孝則
 第1次派遣隊の一員として、災害派遣に参加した。活動内容は福島県いわき市での物資輸送であった。期間を通して現地の方から激励の言葉を多数頂き、感謝されている事、又自衛隊が必要とされている事を強く感じた。
 さて、今回ほどメディア等で自衛隊の活動そして隊員の活動がクローズアップされた事は過去にないと思う。ある週刊誌によると、もくもくと活動する隊員に感銘を受け『嵐』を超える人気が出て来たそうだ。信用、信頼を築き上げる事は難しいが、失墜させてしまう事は簡単である。一自衛官としてしっかり行動していきたい。今回の震災及び自身が体験した事は自衛官、親として後世へ伝えるべき事は伝える義務が私はあると思う。
 最後に被害に遭われた方々に心よりお悔やみと、お見舞いを申し上げると共に、この国難に対し何か自分なりに努力していきたい。

ロンドン五輪 期待の星
オリンピックへカウントダウン
富井、山中、見事入賞
〈近代五種アジア選手権〉
ロンドン五輪出場権を獲得
体育学校
〈シリーズ17〉
山中陸士長が史上初の快挙(日本人女子)

 5月19、20の両日、中国成都市で開催されたアジア・オセアニア選手権において自衛隊体育学校所属山中詩乃陸士長(平成2年、高知県生まれ)が女子部門で5位入賞、富井慎一3陸曹(昭和55年、愛知県生まれ)が男子部門で4位入賞し、それぞれロンドンオリンピック出場権を獲得した。山中は女子近代五種日本人選手としては史上初となる。
◇    ◇
 キャリア1年半の山中は、キャリアのアドバンテージとなる射撃がレーザーに変わったことで、高校時代国体準優勝の脚力を発揮しやすい状況になっていた。ただ、フェンシング、水泳、馬術はキャリアの差がそのまま出る。事実、フェンシング、水泳では苦戦を強いられ、フェンシング、水泳が終わった段階で17人中14位と下位に低迷していた。だが、馬術では大きく飛躍することになる。山中は2月に練習中、落馬してしまい、馬に対する恐怖感が生まれてしまっていたが、コーチの指導のもと、練習を逃げずに続け、次第に恐怖感を克服することができ、逆に外国の馬に乗ってみたいと思うくらいまでになっていた。それが良かったのか馬術で3位となり、総合11位まであげることができた。これにより得意種目コンバインドにつなげ、堂々の5位(日本人最高位)でオリンピック出場枠を獲得した。
 富井はキャリア7年目、水泳では個人メドレーの選手として中学時代は全国的に名を馳せた選手だ。富井の特徴は平均的にポイントを稼げる選手だが、上位進出の鍵は最初のフェンシングで波に乗れるかどうかにかかっていた。今回は17勝12敗と富井にとっては絶好のスタートなった。
 水泳は得意種目で難なく6位で終えると、問題は馬術であった。馬術は不得意ではないが、抽選で当たる馬で差がつく。富井が当たった馬は最悪だった。勝手に走り出してしまうような暴れ馬だった。だが、富井はこの馬を上手く押さえ込み、わずか1失策の満点に近い点数をとることができた。これによりコンバインドで弾みがついた。4月のイタリアワールドカップでは成績がふるわず、思い切って射撃のクリックを変えてみた。賭けだったが、レーザー銃との相性が良かったのか、思った以上に良く当たり、これまでにない好タイムでゴールし、4位入賞を勝ち取った。
 近代五種は、まだ、世界と差があるのが日本選手の現状だが、今回戦った中国、韓国は既に世界で十分実績を残している選手たちだった。その中で、オリンピック枠獲得は、十分世界で通用することを証明したと言える。これまではオリンピックに出ることが目標だったが、オリンピックに出るからには、メダルを目指して頑張ってもらいたい。それが夢物語でないことを彼らは自分の実力で今回証明できたのだから。
 (体校渉外広報室・佐野伸寿3陸佐)


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