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自衛隊ニュース   2010年2月15日号
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日米安保改定50周年祝う
《横須賀総監部》
両国艦艇の満艦飾掲揚も
海自、米海軍の絆を一層強化
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 1月19日、日米安全保障条約改定の調印日から50年の節目を迎え、横須賀地方総監部(総監・松岡貞義海将)の吉倉桟橋で日米安全保障条約改定50周年記念行事が行われた。
 式典には両国の司令官らと艦艇(日本側:護衛艦「おおなみ」・米側:イージス駆逐艦「ラッセン」)並びに海上自衛隊及び米海軍基地関係者約300名が参加し、自衛艦隊司令官(杉本正彦海将)が「日米安全保障条約に基づく同盟関係は、日本の発展と独立に貢献しただけでなく、アジア太平洋地域の平和と安定にも貢献してきたと高く評価されている。日米安全保障条約の根幹は海上自衛隊及び米海軍の固い絆であり、海上自衛隊及び米海軍の絆をさらに強固なものにし、日米同盟を深化していかなければならない」と挨拶し、午前8時に両国の国歌が演奏される中、海上自衛隊及び米海軍両艦艇の満艦飾掲揚が同時に行われた。
 引き続き、自衛艦隊司令官と第7艦隊司令官(ジョン・M・バード中将)並びに横須賀地方総監と在日米海軍司令官(リチャード・B・レン少将)がそれぞれ楯の交換をし、その後、海上自衛隊横須賀音楽隊及び米海軍第7艦隊バンドによる合同演奏を行い、日米安全保障条約改定50周年を祝った。
 最後に第7艦隊司令官が「日米安全保障条約は、過去50年間にわたりアジア太平洋地域の平和と安定の礎としてあり続け、侵略を阻止し、地域の経済的発展をもたらすことに成功してきた。日米同盟は、海上自衛隊と我々の強固な関係が基礎となっており、世界の中で重要な関係である。地域の安全保障の基礎であり続けると信じている」と述べ、今後一層の日米関係の強化を望んだ。
 この日は横須賀基地だけでなく、厚木基地や佐世保基地でも記念行事が行われ、厚木基地では、米海軍厚木基地司令部の跡地に造られた「友好広場」のオープニングセレモニーが盛大に開かれた。

防衛医学セミナー開催
阿川教授の特別講演も
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 平成21年度防衛医学セミナー(セミナー長・渡邉千之中央病院長)が1月27日、「国の安全と医療」をメインテーマに防衛省A棟講堂で開催された。多数の衛生幹部等を前に渡邉セミナー長が挨拶したあと、慶応義塾常任理事の阿川尚之教授が「アメリカ人と軍隊〜歴史・戦争・司法・教育そして医療」と題する特別講演を行った。
 引き続き、午後からは「新興感染症における自衛隊衛生の役割」をテーマとし、特に新型インフルエンザ対処を念頭に、厚生労働省の福島結核感染課長による基調講演や4人のパネラーによる意見交換が行われた。
 次いで、パネルディスカッションや質疑応答も行われ、各機関などの役割と支援要領について活発に討議した。
 また、翌28日には第55回防衛衛生学会が三宿駐屯地で開催され、時代の変化に対応した数多くの演題が発表された。

加藤佐総監が講話
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  佐世保地方総監・加藤耕司海将は1月15日、佐世保教育隊で第2回総監講話を行った。講話には、佐世保教育隊司令・奥村國弘1佐をはじめ、第112期初任海曹課程学生や職員約180人が参加した。
 加藤総監は、「なぜ『抜本的改革』か?」と題し、海上自衛隊の将来を担う初任海曹課程学生が、海上自衛官として自信を持って勤務を継続するためには、海上自衛隊を魅力のある組織にする必要があり、そのためには、各人が教育期間中に「個人の充実」を図ることが重要であるとともに、「社会人としての規範」を確立しなければならないと強調した。聴講した学生は、終始緊張した表情で集中しており、その真しな姿が印象的だった。
 総監は最後に、修業後は各配属部隊において、「親和」、「信頼」、「進取」を基盤とし「活気みなぎる組織の再生」のための原動力となって、部隊の士気の高揚に貢献するよう希望して講話を締めくくった。

海賊対処へ出発!!
《大村航空基地》
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 派遣海賊対処行動水上部隊(4次)派遣準備指示を受け、第22航空群(群司令・中田芳基海将補)は1月28日、大村航空基地から佐世保在籍の第5護衛隊護衛艦「さわぎり」へ派出する、第22航空隊「SH―60K」哨戒ヘリコプター1機搭乗員8名(派遣隊長・第222飛行隊・梅田博之3海佐)の派遣壮行会見送りを行った。
 この日午前9時30分から基地エプロンで実施した壮行会には、大村・東彼防衛協会会長(松本崇大村市長)はじめ、地元防衛協会、父兄会、隊友会、OB会、基地モニター等の来賓、家族等約50名の参加を得て、基地隊員とともに派遣隊員を見送った。
 出発に先立つ壮行会で、派遣隊長が第22航空群司令に対し力強く出発報告を行い、群司令が「海上自衛隊第22航空群代表として、また、我が国の海賊対処行動部隊としての誇りと自覚を堅持して任務に取り組んでもらいたい」と訓示、続いて松本大村市長が、壮行激励の言葉を述べた。
 派遣搭乗員8名は、SH―60K「8428号機」に搭乗し、家族、来賓、隊員に見送られ午前10時、大村航空基地を離陸、佐世保沖で待つ、護衛艦「さわぎり」へ元気に出発した。
 第22航空群は海賊対処行動へは2回目の派遣となる。

ロンドン五輪期待の星
<シリーズ1>
ライフル射撃
山下敏和 2陸尉(徳島県出身、1977年2月生まれ)
《体育学校》
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 2010年1月現在、自衛隊体育学校でオリンピックに一番近いのは、山下敏和だ。山下は、3姿勢、伏射、エアの3種目で日本記録を持つ国内では敵なしの存在だ。
 山下が射撃を始めたのは徳島県立小松島高校射撃部に入部してからだ。強い希望があった訳ではなく、珍しさで選んだという。だが、山下はすぐに頭角を現し、高校2年でインターハイ、国体等主要4タイトルを制し、一躍日本のトップ選手になった。その後も順調に勝ち続け、中央大学に進むと3年で全日本選手権のタイトルを手にした。そして、1999年4月自衛隊体育学校に入隊した。
 ここから山下の苦難が始まる。体育学校入隊と同時に射撃が当たらなくなった。それは、自衛隊員としての生活に慣れることができず、将来に対する不安から競技成績が下がっていった。だが、入隊2年目、陸曹教育隊に入隊し、本格的な自衛官としての訓練を何とか終えると、自衛官としての自信が生まれた。すると競技成績も上向き始めた。
 だが、その時期、体校には五輪4大会出場の柳田勝がいた。山下は柳田を超えることができなかった。だが、アテネ五輪が終わり、柳田が引退。自分が体校の射撃を引っ張らなければと思い始めると、不思議と射撃成績が伸びた。すると、国際試合に対する考え方も変わった。
 それまで、海外の試合では外国へ行くことに関心があったのが、試合や勝負そのものに集中するようになった。そして、他の一流選手がどうやって試合に挑み、自分とはどう違うのかを山下は観察するようなった。すると、国外主要大会でも成績が残せるようになった。07年北京五輪予選を兼ねたアジア選手権で4位となり五輪出場権を獲得した。また、08年W杯ミラノ大会で銀メダル。山下が世界で通用する時代が到来した。山下は高校2年で主要タイトルを獲得して以来、技術が格段に進化した訳ではなかった。伸びていく時は、意識が変わっていったという。現在国内では無敵、本人も「国内で勝っても嬉しくない、ただ自分の記録を世界記録に近づけたい」という。
 オリンピックに行ける選手は体育学校入校1〜2年ですぐに結果を残す人も多いが、山下のように何年もかけて強くなっていく選手もいる。山下は「失敗してもくよくよせず、前向きに気持ちを切り替えることができ、それがあったからここまで頑張れた、前回のオリンピックは参加することに意義があった。次は(メダルを)獲りにいく」体育学校特別体育課程学生長・山下敏和(32歳)は日々進化している。
 (体校渉外広報室・佐野伸寿3陸佐)

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