防衛ホーム新聞社・自衛隊ニュース
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自衛隊ニュース   2009年10月15日号
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佐世保海軍墓地
「海の防人之碑」を清掃
《2掃隊》
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 海自第2掃海隊(司令・三溝詔敏3佐)隷下の掃海艇「うくしま」(艇長・大浦正宝1尉)は、年次検査の期間を活用し、訓育の一環として、佐世保海軍墓地内にある「海の防人之碑」の清掃奉仕活動を実施した。
 この碑は、明治22年日本海軍佐世保鎮守府開設以来、崇高な使命に殉じた日本海軍将兵、軍属の御霊と昭和28年海上警備隊佐世保地方隊発足以来、志半ばにして職に殉じた海上自衛隊隊員の御霊を共に慰め、その功績を称えるため、海上自衛隊創設50周年にあたる平成14年、海軍の英霊が眠るこの地に設立されたもの。
 記念碑の敷地は約100平方メートル、記念碑及び敷石ともに立派な御影石で造られているものの、風雨により苔がはびこり、黒ずんでいる状態。管理人との事前調整に当たった作業指揮官でもある先任伍長(冨田勇進曹長)は、デッキブラシのみでは落ちないと判断、「高圧ジェット水霧器」を使用し、作業を実施することを計画した。
 清掃作業に先立ち、この墓地の管理人である亀崎氏(海自OB)により、碑の由来、また海軍墓地の歴史について説明を受け、それぞれがその思いを胸に作業を開始した。
 清掃作業においては、先任伍長提案の「高圧ジェット水霧器」が威力を発揮、大活躍し、デッキブラシ隊、雑巾隊は補佐役に徹した。秋晴れとはいえ残暑の中、ヤブ蚊と格闘しつつ、作業は約3時間半で終了、敷地は碑が設置された時と同じくらい綺麗になった。
 管理人の亀崎氏は、作業終了後の状況に大いに感激、作業に当たった乗員に対し、何度も感謝の意を表していた。また、乗員は、先人に感謝するとともに「海の防人之碑」に両手を合わせ一礼し、清々しく佐世保海軍墓地を後にした。

皇太子殿下を「と列」奉送迎
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 滝ヶ原駐屯地所在部隊は9月14日、皇太子殿下の「国立中央青少年交流の家」開所50周年記念行事にご出席のための行啓に際し、駐屯地前(県道23号沿い)で、隊員約670名が「と列」を行い、皇太子殿下を奉送迎して敬意を表した。
 この日は初秋の穏やかな天候に恵まれ、駐屯地司令以下、通常礼装の隊員が500mにわたり整列。午前11時58分に奉迎し、記念行事終了後の午後4時3分、滞りなく奉送した。
 皇太子殿下は「と列」の部隊全員に対し、車中から微笑まれながら答礼され、奉迎・奉送した隊員も心から感激しつつ「と列」の大任を果たした。

知行合一のすすめ
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 知行合一という言葉を御存知でしょうか? 「ちこうごういつ」と呼びます。武士道の源流といわれる儒教のなかの学問のひとつである陽明学の言葉であり私の好きな言葉です。その意味は「知る事」と「行動する」ことは本来ひとつである、簡単にいえば、「心に決めたことは行動に移す」ということです。
 陽明学の教えでは人が「何かを決めたら行動に移す」のはきわめて自然の流れであり、あたかも陽が登ったら明るくなるようなことであると教えています。逆にいうと何かを決めたつもりでも行動しなければそれは「本当はなにも決めていない」というわけです。
 行動とは自分の判断を外に示すということであり、何の行動もしないとしたら人は何も知らない、行動を生み出すだけの判断が生まれていないということです。
 私がこの言葉を知ったキッカケは平成16年から18年にかけて運用訓練幹部として勤務していた第4陸曹教育隊において学生の精神教育の一環で日本陽明学の祖といわれる中江藤樹先生についての現地教育があったことです。あいば野演習場での総合訓練の際に近くの高島町(生まれ故郷の)にある中江藤樹先生の記念館等の研究及び現地の人による講話を実施していたのです。藤樹先生は近江聖人とよばれ、戦前の修身の教科書では必ず登場するような人物であり、内村鑑三の名著といわれる「代表的日本人」に書かれている5人の日本人の中に西郷隆盛、二宮尊徳らと一緒に載っている人物で、これをキッカケに興味を持ち関連書籍を購入したり、プライベートで現地を訪れるようになりました。また、7連隊で中隊長をやっていた時は、あいば野にいった際に精神教育で隊員を現地に連れて行ったりもしました。
 最近テレビの中では世間の問題点を得意げに話をしている評論家タイプの人が多いようですが、知行合一とは行動(実戦)することの重要性を説いた言葉であり、「本当に何かを知っている人」と「本当は何も知らない人」をはっきりと見分けられる基準なのです。
 部隊においてもそれぞれの立場において教育入校等で新しい知識を得てきた人はそれを普及し主動的に実戦していくことが大切であると思いますし、様々な隊務の中において自分が良いと思ったこと、正しいと思ったことは勇気を持って実行(実戦)していくことが組織のため、また自分自身のため大切であると思います。
 私自身、「知行合一」に少しでも近づけるようにやっていきたいです。(33普連 連隊本部 第4科長 1陸尉 木村暁浩)

彰古館 往来
陸自三宿駐屯地・衛生学校
<シリーズ92>
陸軍軍医総監の肖像(3)
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 「陸軍軍医総監」というのは、実は階級呼称で職名ではありません。職名としては「医務局長」が陸軍衛生のトップとなります。
 ところが、軍医総監でありながら、医務局長にならない方もおります。
 順天堂から西南戦争、日清戦争、日露戦争に出仕した佐藤進軍医総監もその一人です。平時には東京順天堂病院を切り盛りしていたのです。
 佐藤軍医総監の礼装姿の写真は、一般に流布されていますが、彰古館には珍しい背広姿や、手術室での下駄履きの写真が残されています。
 逆に第2代、第5代陸軍軍医学校長の足立寛軍医監は、軍医総監にならなかったにも拘わらず、肖像画が残されています。彰古館展示の白眉、黒田清輝の揮毫によるものです。この肖像画の裏書きには「明治44年(1911)、5月6日の私の古希(70歳)の祝いに旧門下生と友人1000名が祝賀会を催してくれた。その記念に、油絵肖像画1枚、金時計、軍用隻眼鏡、コンサイクロペチア・フリタニカ29巻(原文ママ)ほか、を寄せられる。これすなわち、その一つなり。記して以て後の考証となす。足立寛誌」と書かれています。後年の研究者にとっては実にありがたい添え書きです。
 高名な洋画家、黒田清輝に肖像画の依頼をしたのはかの森林太郎でした。
 ほかにも、臨床用のX線装置1号機を私費で購入して陸軍軍医学校に寄贈した芳賀榮次郎は、軍医総監でありながら、医務局長にならなかった経歴の持ち主です。明治40年(1907)の第13代陸軍軍医学校長が軍中央の最後の勤務です。
 彰古館には、大佐時代に撮影された大判の写真と、金婚式の記念の胸像があります。また最近、撮影時期不詳の集合写真に、森林太郎(軍医監?)と並んだ芳賀軍医(大佐?)の写真が見つかっています。
 実は、二人は脚気に関する見解の違い(森は細菌説、芳賀は麦飯主義)から、距離を置いており、二人が並んだ写真というのは、珍しいものです。
 芳賀軍医は、軍医学会の生き字引として昭和28年(1953)、89歳の長寿を全うしております。
 医務局長でありながら、肖像画が残されていない方は大勢いますが、その筆頭が森林太郎でしょう。彰古館には、戦後自衛隊OBの吉田栄一が揮毫した肖像画が展示されています。
 森軍医総監は、明治26年(1893)第7代、明治39年第12代と、二度の陸軍軍医学校長勤務を経て、第8代医務局長となります。先の集合写真は、二度目の軍医学校長時代のものと考えられます。
 森の医務局長時代の写真で興味を引くのは、通常は将官になると外す兵科徽章を装着していることです。森医務局長は「僕は医者だから外さないよ」と、深緑の襟章を軍医監昇任時から付けたままでした。極めて重大な服務規律違反になるところですが、森に文句を言える将官は、陸軍省内に一人もいなかったそうです。「森が陸軍にいることは、陸軍の誇りである」とまで言われた、森軍医総監ならではのエピソードです。


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