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自衛隊ニュース   2009年6月15日号
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火箱陸幕長が初視察
師団長と隊務運営意見交換も
《西部方面隊》
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 5月28日、火箱芳文陸上幕僚長が西部方面隊(総監・用田和仁陸将)を初度視察した。
 この日の午後、健軍駐屯地に到着した火箱陸幕長は、殉職隊員慰霊碑に献花を行った後、西部方面総監部へ移動、用田西方総監の出迎えを受けたあと、第5地対艦ミサイルと西部方面音楽隊で編成する儀仗隊(儀仗隊長・第5地対艦ミサイル連隊第1中隊長林3佐)の栄誉礼を受けた。
 幹部挨拶の後、用田総監から西部方面隊を取り巻く環境、島嶼防衛を担任する西部方面隊の特性、統合運用の先駆けとしての方面隊演習をはじめとする部隊の「強靱性」を向上させる新たな方面隊の取組みについて状況報告を受けて、方面隊の隊務の現状を承知するとともに、健軍駐屯地生活隊舎の視察を行い、部隊の服務指導施策と隊員の生活環境の現状を確認した。
 生活隊舎の視察においては「平素から同僚との触れあいを大切にし、戦う仲間としての信頼関係を育んでもらいたい」と隊員一人一人を激励した。最後に師団長等に対する訓示を行うとともに、師団長等と隊務運営に関し、意見交換を行って西部方面隊の視察を終了した。


小学生絵画展を開催
=北関東防衛局=
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 昨年の百里基地周辺に引き続き、今回、相馬原駐屯地周辺地域の防衛省の助成事業で整備された公園や校舎、公共施設などで学び遊ぶ友達や家族の絵を描いてもらおうと北関東防衛局が企画したもので、今年3月16日から4月9日まで高崎市(箕郷町)及び榛東村に在住する小学生を対象に作品を募集した。
 絵画のテーマは「私のまち(友達・家族)」で画用紙に色鉛筆やクレヨン、水彩絵の具、フェルトペンなどを使い自由に描いてもらう趣旨から募集要領には「絵のうまさを審査することが目的ではありません。のびのびと自由に描かれたものを歓迎します」と審査のポイントも記載。作品は支所や役場を窓口に募集し、その結果、高崎市(箕郷町)から326点、榛東村から276点、合わせて602点の応募があった。
 審査は北関東局で行われ、高崎市(箕郷町)から「夢いっぱい賞」に3年生高橋佳奈絵さん、「ほのぼの賞」に4年生寺本三奈さん、「のびのび賞」に4年生村上める桃さん、「はつらつ賞」に3年生神澤宏実さん、榛東村から「元気いっぱい賞」に5年生斉藤優依さん、「和やか賞」に5年生一倉有里佳さん、「あざやか賞」に2年生大坂瑠菜さん、「さわやか賞」に1年生遠山萌依さんの作品がそれぞれ決まった。いずれも応募時の学年。
 作品の展示会場は高崎市(箕郷町)が箕郷支所内ロビー、榛東村が南部コミュニティセンターで、それぞれ応募のあったすべてが展示された。
 同16日に相馬原駐屯地資料館で行われた表彰式には各賞の受賞者と両親や家族、真塩榛東村長、笠原箕郷支所長及び各自治体関係者、部内から鎌田局長、相馬原駐屯地の堀口第12旅団長らが出席。主催者を代表して鎌田局長があいさつし、「今回2回目の試みであり、602名(対象児童数約2100名の応募比率で約30%、去年20%)もの応募があり、どの作品も一生懸命描かれた素晴らしい絵ばかりで、選考に非常に苦労しました。入選された8名の方々、受賞おめでとうございます」と述べ、受賞作品の紹介に続いて受賞者それぞれに賞状と賞品を鎌田局長、堀口旅団長から手渡した。
 授賞式後、戦車の前での記念撮影、ヘリ見学及び体験喫食を行った。なお、展示期間中(5月15日〜19日)における入場者数も前回より、かなり上回ったことから、この取組への関心が一層高まっているといえる。

彰古館 往来
陸自三宿駐屯地・衛生学校
<シリーズ 88>
2種類の赤十字徽章
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 彰古館には、軍医が戦地で初期治療を行うために装備化された肩掛け式の皮製のバッグが2つあります。
 このバッグに赤十字徽章が縫い付けられているのですが、その白地のベース部分は片方が楕円形、もう一方が正方形となっています。
 2つのバッグ自体は全く同じ形状、構造で一見して相違点は見出せません。
 単に製造時期か、納入メーカーの違いなのか、判然としません。
 両者に全く外見上の差異が無いため、逆に意図的にデザインを違えたようにも見受けられます。
 一部の軍装品の研究者によっては、四角いマークは将校用、楕円のマークは下士官用との意見もあります。
 基本的に軍医は中尉以上の将校なので、四角いマークのバッグを使用し、衛生下士官は楕円形のマークのバッグを使用することになります。
 しかし実際には、2つのバッグが混用して使用されている例もあります。
 一見、意味のないマークの違いですが、彰古館の所蔵史料を調査した結果、面白い結論が出ました。
 まず、ベース部分が四角いバッグの正式名称は「四十年式医療嚢」で、主に薬剤が収納されています。
 それに対してベースが楕円形のバッグは「四十年式包帯嚢」で、入り組み品は包帯が主となっています。
 つまり、2つのバッグの違いはその内容品にあったのです。
 「医療嚢」は薬剤の入った紙箱のイメージで四角、巻軸包帯のイメージで「包帯嚢」は楕円形で表現したわけです。
 これなら簡単に内容をイメージ出来ますし、取り違えることもありません。夜間などでも瞬時に両者を識別できます。
 2つのバッグのマークの違いには、戦地での使用を考慮した重要な意味が存在したのでした。
 両者共通の入り組み品は、鋏、ナイフ、注射針、安全ピンなどを収納した雑品嚢、通信紙(部隊への連絡用の定型用紙)、死傷手簿(傷の部位、状態などを記載する記録紙)、メンタ酒(メンソールつまりハッカと砂糖、アルコールを原料とした気付け薬)、ゴム絆創膏二号及び三号、リバノールガーゼ2包、螺旋止血帯となっています。
 医療嚢独自の内容品は、錠剤容器、缶入りのアンプルと注射器のセット、管入りヨウチン、脱脂綿板巻軸帯(包帯)二号3包です。
 包帯嚢の内容品は、医療嚢独自の内容品の代わりに、巻軸帯二号が7包に増加しています。
 名称の四十年式というのは、もちろん制式採用となったのが明治40年(1907)という意味です。
 日露戦争(1904〜05)での戦訓を生かして、新規に採用された装備ということになりますが、実際には昭和20年(1945)の終戦まで使用され続けていました。ただし、末期には物資の不足から、皮製の本体はズックの布製に、ストラップも布製に変更されています。
 戦場で多数の負傷者を救ったであろう赤十字のバッグも、戦後は使い勝手の良い大きさから、赤十字マークを外して使用された例が多数あります。

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