防衛ホーム新聞社・自衛隊ニュース
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自衛隊ニュース   2009年5月15日号
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防衛施設中央審議会開く
会長選任、在日米軍再編など説明
《防衛省》
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 第5回防衛施設中央審議会が4月28日、防衛省で開かれた。同審議会は駐留軍用地特別措置法第30条により平成12年に発足、ク米軍から返還された土地等の所有者から原状回復や損失補償等について異議の申し出があった場合に防衛大臣の諮問に応じて意見を述べるケ米軍に対して新規に土地等を提供する場合で防衛大臣が代行裁決する際に議決を行う、などの役割がある。
 今回の審議会では会長選任のほか、委員に駐留軍用地特措法の施行状況、在日米軍の再編についての説明が行われた。武田良太防衛大臣政務官は冒頭挨拶で、「国民の権利義務に直結する代行裁決の適正な実施の担保や防衛行政の適正な執行のために、委員の皆様には極めて大きな役割が託されております」と述べた。

“愛の献血"運動参加
《空自武山分屯基地》
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 航空自衛隊武山分屯基地(司令・倉本昌弘2空佐)では3月19日、神奈川県横浜赤十字血液センタ―の要請を受け献血が実施された(写真)。
 武山分屯基地としては平成17年5月に実施して以来、約3年10ヶ月ぶりの実施となったが、各隊員は、訓練・業務等多忙な中でも、「献血の準備が整いました」の連絡を受けると同時に積極的に献血車へ向かい、合計51名が献血を実施した。
 横須賀市内の献血ルームは現在閉鎖されており、定期的に献血を実施している隊員にとっても今回の献血は非常にありがたいものだった。また、献血が終わり、血液センター職員からの「ドナー登録お願いします」の呼びかけにも快く登録する隊員も多数見受けられた。
 基地では、今後もペトリオット部隊として国民の注目が集まる中、部隊一丸となって社会貢献にも取り組んでいくとしている。

下基の名物記者第二の人生へ
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 下関基地隊(司令・原田1佐)では、下関基地隊の投稿記事を17年以上手がけた吉田幸男・防衛技官が、桜の花が咲き誇る基地隊の庁舎前で基地隊全員の見送りを受けながら、第二の人生に旅立った。
 吉田技官は昭和45年5月、防衛庁にボイラ技手(ぎて)として入庁。佐世保警備隊に1年余り勤務した後、下関基地隊で昭和46年12月からボイラの運転・整備を担当してきた。勤務の傍ら、趣味である写真技術を生かし基地隊の様々な行事を撮影。これに好評を得て、昭和54年から基地隊の「公式カメラマン」として活躍した。
 平成5年4月からは投稿記事の執筆も手掛けるようになり、年間の投稿回数は25から30に及んだ。吉田技官は、記事を書く際には、その歴史や人物の特徴、入港艦艇の場合には性能要目などを下調べしてから現場において疑問点を質問するなど、正に丹念な記者活動を行って記事を書いた。基地隊の隊員が参加する行事にはほとんど参加していたことと、吉田技官の温和で親しみやすい性格もあって、下関市内の全国紙や地方紙の記者はもちろん、下関市長、市議会議長などにも声を掛けられるようになり、「下関基地隊の名物記者」となった。
 こうして投稿した記事は多くの新聞に掲載され、投稿した記事は17年で400件を優に超えた。内容も、基地隊隊員の活動が手に取るように分かると好評で、特に下関基地隊に勤務している隊員はもとより、OB隊員からも、賞讃の声が寄せられたほど。
 吉田技官は、38年10カ月に及ぶ自衛隊生活に終止符を打ち、下関市内のホテルにボイラマンとして再就職する予定で、引き続き下関基地隊をOBとして見守っていきたいと話している。

彰古館 往来
陸自三宿駐屯地・衛生学校
<シリーズ87>
摘出弾は語る (5)
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 戦場で負傷の原因となる兵器は小銃だけではありません。いわゆる近接火器、個人携行火器の中でも手榴弾(ハンドグレネード)は、その爆発時の破片による殺傷効果が高い兵器です。
 わが国では、蒙古襲来(元寇1274年)の際に使用された震天雷(てつはう)が初めての使用例とされています。実際には投擲機と呼ばれる発射装置での攻撃で、手投げ弾ではなかったようですが。後に、震天雷は国産化されたとも伝えられています。
 その後は小火器の発達とともに忘れられていましたが、近代戦においては、日露戦争(1904〜1905)でロシア軍が大砲の撃ち殻薬莢に黒色火薬を詰めて、日本軍の塹壕に投げ込んで来たとの記録があります。
 一般には第一次世界大戦時に登場したと考えられている手榴弾ですが、分類も困難なほど多種多様の手製手榴弾があったようです。
 こうした手製手榴弾は、缶詰や、大砲の薬莢、水道管、車軸、ブリキ板などから作成されています。
 はなはだしい例として、日本軍の榴弾砲の砲弾を使用して作成された物すらあります。フランスの見学武官の記録によると、日本軍が使用した榴弾砲の弾頭は、構造上の特性で底の部分から破裂し、弾頭の前部は比較的破損が少ないので、この先端部分を利用して工兵隊が改造しています。内部に騎兵用綿火薬を詰め、下側を木栓で蓋をし、先端部分には信管をコンクリートで塗り込めてあります。日本製の砲弾で、ロシア軍側からお返しをされた例は多数あったようです。
 この有難く無いお返しを捕獲した日本軍は、同様の手製手榴弾を作成して投げ返したということです。
彰古館には摘出弾ではなく、ロシア軍が作成した手製手榴弾そのものが現存しています。戦地で軍医が収集した物です。
 この手製手榴弾は、基本的に2種類の発火方式からなり、ひとつは当時の砲弾と同じ着発信管で、発火装置にスプリングが仕込まれており、着弾のショックで爆発させるものです。飛翔中と着弾時に姿勢を維持する必要があり、弾体は軽い空き缶やブリキ板を加工した物を使用、頭部に鉛の錘を入れてあるのが特徴です。
 こうした弾体の構造が薄い場合は、内部に装薬とともに、金属片などが混入して殺傷効果を上げています。
 もうひとつは点火式と呼ばれるもので、投擲前に発火させ、遅延装置(導火線など)で着火を遅らせ、敵の陣地に落ちた頃に爆発させるものです。
 点火式の多くは大砲の薬莢利用ですが、元々の開口部や底部から爆圧が逃げてしまうようで、ほぼ原形を留めています。
 いずれにしてもこれら手製の手榴弾の威力は極めて高く、旅順要塞戦では、接近戦において彼我とも甚大な被害が出ています。
 彰古館所蔵史料によれば、ロシア軍の手榴弾製造開始は明治37年(1904)8月からで、使用開始は旅順攻撃中の第十一師団方面が8月7日、第九師団方面が8月27日、第一師団方面が9月19日で、製造数1万8000発と、詳細な記録が残されています。

〈お知らせ〉
 前号(第762号)5面「桜、一粒の命…いっきちゃんを救いたい」の記事は、小平学校人事教育部長の池田整治1陸佐の投稿を割愛しながら掲載したものです。「いっきちゃんを救う会」事務局の話によりますと、関係者のご尽力により目標募金額を上回るご厚志が寄せられたとのことです。
 詳しくは同事務局ホームページ(http://www.ikkichan.jp)をご覧下さい。(編集部)

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