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自衛隊ニュース   2009年1月15日号
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彰古館往来
陸自三宿駐屯地・衛生学校
〈シリーズ83〉
摘出弾は語る 1
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 今から132年前の明治10年(1877)、時の陸軍卿(陸軍大臣)西郷隆盛が蜂起します。世に言う西南戦争です。陸軍健軍から僅かに5年後のことです。
 この西南戦争で、陸軍は近代戦争における軍の運用が、まだまだ未熟であることを露呈しました。ところが軍医部だけはうまく機能していたとされます。
 その理由のひとつに、膨大な臨床例のデータ化があげられます。戦役終了時には、各軍団の業務詳報が陸軍軍医学校に集められ、解析された資料は、数字で統計にまとめられたのです。
 西南戦争の医学的な特徴は、その受傷者のほとんどが銃創であったことです。
 この戦役では、石黒忠悳二等軍医正は「現地の包帯所も良くやってくれておるが、やはり重症患者は、大病院で集中的に治療を行う必要がある」と、大阪に陸軍臨時病院を開き、自ら病院長となりました。
 石黒は、西南戦争を「わが国で最初の大掛かりな鉄砲傷の戦いである」と位置付けています。
 大阪陸軍臨時病院では、8569人という未曾有の傷病兵を受け入れています。
 石黒の大阪陸軍臨時病院報告摘要によれば、負傷者の入院数は5999人、1カ月平均で約4000人が入院しておりました。
 この大量の臨床例を扱うことによって、軍医たちの実力は欧州並みの医療レベルに引き上げられたのです。
 治験記事によれば、負傷者の多くは銃創であり、一部が刀傷、火傷が極少数あります。
 彰古館には、これらの記録のほかに、負傷者から摘出された弾丸の実物が残されています。その多くは、口径14・5mmのエンピール銃、もしくはこれを後装銃に改造したスナイドル銃のものと思われる弾丸です。
 また、一部には球状弾が残っており、これは西郷軍が旧式の火縄銃までを持ち出していた証拠です。
 エンピール銃、スナイドル銃はどちらも、ミニエー銃と呼ばれた施綫銃(ライフル銃)です。エンピール銃は旧式の先込め式(銃口側から火薬と弾丸を圧入するタイプ)で、スナイドル銃はこれを近代的な後装式(銃身の後部が開閉式で、火薬と弾丸がパッケージ化された金属薬莢式のタイプ)です。
 急な蜂起で、弾薬補給もままならない西郷軍は「仲間になるから必ず鉄砲を持って来い」という条件もあったようです。彰古館に現存する摘出弾は、口径も銃種も多種多様で、西郷軍の台所事情が窺い知れます。
 この乱戦において、負傷した兵士から摘出した弾丸を一つ一つ記録した陸軍軍医部の仕事振りと、132年を経た現在まで伝えられている事実は評価に値します。
 その変形した弾丸からは、まるで撃たれた官軍兵士の苦悶の声が聞こえて来るかのようです。名もない一兵士たちの臨床例が、後の医学の発展に寄与したと願わずにはいられません。摘出を受けた兵士のほとんどは、感染症で亡くなっています。消毒法が確立する、はるか以前の戦争が西南戦争です。
 摘出弾と治験記事を照合すれば、戦傷の実態が明らかになり、軍事医療史の1頁が埋められるのです。


振武臺記念館新装オープン
盛大にセレモニー開催
《朝霞》
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 朝霞駐屯地(司令・木野村謙一将補)の振武臺記念館は11月28日、本格的整備を完了し新装オープンした。
 今回の本格的整備は、陸軍豫科士官學校の歴史を後世に伝承するに相応しい記念館とすることを目的に実施した。
 主要な整備内容は、説明看板の新設、取り付け道路、玄関等記念館周辺の改修と写真・掲示物の額や説明札等の規格統一、並びに配置換え等館内展示要領の改善だった。
 特に朝霞駐屯地は、外国人を含む部内外の来訪者が多いことから、説明に英語標示を加えた。
 なお、新装セレモニーは、陸軍豫科士官學校卒業生26名を来賓としてお迎えし、駐屯各部隊長、業務隊整備関係者約60名が参列し、業務隊長整備概要説明、駐屯地司令式辞、来賓祝辞、テープカット、写真撮影を実施し、最後に新装した記念館を見学して終了した。
 駐屯地広報は「読者の皆様の来館をお待ちしています」と語っている。


春日基地司令が陸軍墓地修復落成式に参列
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 12月6日、3年前の福岡県西方沖地震で被災した福岡陸軍墓地(福岡市中央公園内)の修復作業が完了し、落成式(「陸軍墓地石碑修復改良委員会」主催、菅原道之委員長)に岩成春日基地司令が参列した。
 同墓地には日清、日露戦争から太平洋戦争で戦没した福岡の関係者が、11基の記念石碑に祀られており、このうち5基が西方沖地震で被災し、大きく横ずれするなど危険性も高まり、地域住民や遺族会から修復の要望が高まっていた。
 毎年慰霊祭を執り行っている福岡県郷友連盟・中野純人郷友会理事長(当時同会副会長)が中心となって、約20団体(春日基地からは、春日基地幹部会)が「陸軍墓地石碑修復改良委員会」を設立し、幅広く募金を呼びかけた結果、多くの浄財が寄せられ、石材専門業者や、同会らの大掛かりの奉仕作業で10月末にほぼ完了した。
 式典で菅原委員長は「多くの戦争犠牲者のおかげで今日の平和が構築されたことは歴史的な事実であり、生き残った我々が慰霊顕彰と平和の誓いを継承することは、当然の義務だと思う。今回は、多くの善意と浄財で地震被災の修復が実現した」と修復の意義と感謝の意を語った。

インパール作戦
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 「インパール作戦」とは、大東亜戦争末期、「連合軍の中国に対する補給ルートの遮断」と「インド独立を支援して連合軍の後方戦略を撹乱」を目的としてインド東北部の要衝「インパール」の攻略を目指した作戦である。
 現地部隊の危惧通り制空権もなく、補給・増援のない中、1944年3月、第十五軍の隷下部隊である第十五、三十一、三十三師団は三つのルートを進撃し、本作戦を予定通り開始した。約600mの川幅のあるチンドウィン川を渡河し、その後、2000m級の険しいアラカン山系のジャングルを長距離進撃せねばならず、各部隊の進撃は困難を極めた。同年4月、十五軍の攻撃はアラカン山中で完全に頓挫した。それでも第三十一師団の一部は英印軍の虚をつき、インパールの北の要衝であるコヒマの占領に成功したが、補給路の途絶した日本軍の健闘もここまでであり、7月には本作戦を中止せざるを得なくなった。
 「善戦敢闘60日におよび人間に許されたる最大限の忍耐を経てしかも刀折れ矢尽きたり。いずれの日に再び来たって英霊に詫びん。これを見て泣かざる者は人にあらず」と第三十一師団長佐藤幸徳は述べた。
 第三十三聯隊は、第十五師団の左突進隊として聯隊主力二個大隊(一個大隊欠)と野砲兵大隊、工兵の一部を配属され、3月15日攻撃開始、チンドウィン川を渡河し一挙にインパール北西地区に突進することになった。
 聯隊は、作戦開始後、アラカン山系を越えてインパール北側15kmの主要高地を奪取した。しかし英印軍の度重なる逆襲やアメーバ赤痢も重なり、戦力の消耗は増加し、次第に守勢に回ることとなった。
 6月上旬における聯隊の戦力は、500名まで減少した。そして7月7日、インパール作戦中止の命令が下達され、敵中に孤立していた聯隊の退却は困難を極め、その完了は8月まで要した。
 聯隊は、第五十三師団の隷下部隊として大東亜戦争直前に編成され、当初、サイゴン(ベトナム)に駐留していたが、5月14日、インパール方面に増援された。
 同月16日反転を開始、第三十三師団の指揮下に入り、ビッシュンプール方面の作戦に参加することとなった。
 聯隊は6月21日攻撃開始、「林の高地」を少ない損害で迅速に奪取したものの、猛烈な敵砲兵の急襲射を浴び、あっという間に壊滅的損害を受け、戦力の大半を失った。
 7月5日、インパール作戦中止の命令が下達されると、聯隊は、師団主力の撤退援護のためクワイモール付近に陣地占領、師団の撤退とともに、それを追尾する敵との間に激しい白兵戦が展開された。ビルマ侵攻時、総員1600名を数えた聯隊は、この作戦で250名までに減少した。(33普連本管中隊・2尉 山本善之)

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