防衛ホーム新聞社・自衛隊ニュース
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自衛隊ニュース   2008年9月1日号
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寄せ書き

「AED」広報
第6施設群本部管理中隊=豊川 2陸曹 藤原正樹
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 平成20年7月1日、愛知県豊橋市JR豊橋駅において、愛知地方協力本部の実施する豊橋駅前広報支援として参加した。支援内容は「AED(自動体外式除細動器)」の展示・説明でした。
 豊橋駅前広報は、豊橋駅の改札口付近の一画を展示ブースとし、「ミリめしコーナー(各種戦闘糧食の展示)」、「災害派遣活動及び自衛隊装備等パネル展示」、そして、我々の実施した「AEDコーナー」等の広報イベントを実施しました。
 AEDコーナーについては、1日3回の展示及び説明を実施しました。平日の昼間という事もあり、駅前を忙しそうに速歩で歩いているサラリーマン等の姿をみて、果たして私達の展示を立ち止まって見てくれるのか心配でしたが、いざ説明を始めると、1人、又1人と人が集まりだし、その人集まりを見て、更に集まるといった具合で、かなりの人達が私達のコーナーを見ていってくれました。しかも、すごく熱心に聞いてくれ、展示が終わると積極的に質問をし、自らAEDの機械を使い実習したりと、私が思った以上にAEDに興味を持っている事を実感しました。
 この豊橋駅前広報「AEDコーナー」において、1人でも多くの人が自衛隊に対する理解を深めるとともに、衛生科隊員として、「いざ」という時に落ち着いて救命処置を実施し、1人でも多くの人の命が助かってくれたら嬉しく思います。

同期の絆、実感
第25普通科連隊教育隊=遠軽 2士 内久根裕樹
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 自衛隊に入隊する前の私は、人に頼らず自分や家族のことだけ考え、他人はどうでも良いと思っていました。しかし入隊してからは同期達との生活でその考えも変わりました。
 辛い訓練のなかで、助け合い励まし合い、日に日に同期の絆が強くなり、辛いことばかりでなく、楽しい生活を送ることができ、良き仲間と出会えたことに幸せを感じました。人間1人の力には限界があり、団結がいかに重要かを学びました。同時に、アイロン・靴磨き・洗濯・清掃など、身のまわりの事を当たり前にやってくれていた親の有り難みを痛感しました。
 最後に、教育期間中の中隊長の言葉が大変印象に残りました。「プレッシャーは相手から受けるものではない。自分自身が作り出すもの。プレッシャーを恐れず、楽しめ」。この言葉を忘れず後期教育も頑張りたいと思います。

待ち受け画面
第103全般支援大隊補給中隊=上富良野 3陸曹 長谷部純矢
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 小学校からの同級生である妻と19年8月に入籍しました。普通、新婚生活でお互い知らないことが多く、生活もお互い助けあって行くというのが一般的ですが、もう妻と付き合いが長かった為、特に苦労はしませんでした。
 ただ、昨年陸曹候補生に指定された自分は、立派な3等陸曹になることを目標に、業務や戦技、後輩の育成等、部隊の戦力になる為日々努力していましたが、その中でもプレッシャーに押し潰されそうになる時が幾度かありました。そういう時に携帯の待ち受け画面を見るようにしていました。
 今年1月、晴れて念願の3等陸曹になることが出来ました。
 一家の大黒柱として「こんなことで負けてはいけない」と心に誓いながら、また仕事への活力をもらっています。一種のお守りみたいな感覚です。
 子供はまだいませんが、これで子供が出来ればより一層気合いが入るお守りになるのではないかと考えています。

交通安全地蔵尊を護持
恵庭隊友会員 野俣 明
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 千歳と札幌を結ぶ道央の幹線旧36号は、1953(昭和28)年当時米駐留軍の要請も有り、一挙に完全舗装の近代的な規模で造成され、通称【弾丸道路】と呼ばれて、昭和40年代頃まで北部方面隊勤務の者には、馴染み深かった。
 当時、モータリゼイションの時代背景に伴い、交通量が激増し、死亡事故も頻発、開通後4年間で沿道地元は、16人死亡の事故多発地帯になった。
 危機に苦悩した地元有志は、犠牲者の慰霊と交通安全・事故絶滅を願って、1958(昭和33)年旧恵庭町や運輸業者からの多額の寄付で、現在地・和光町1丁目の道路沿いに、立派な地蔵尊(高さ5メートル)を建立した。
 現地に所在する陸上自衛隊南恵庭駐屯地関係でも、1952(昭和27)年12月、第1施設群初代群長中本太郎1佐が着任直後、ジープで行動中、衝突事故に遭い殉職された。当時は補償関係も不備で、ご遺族は悲惨な状態であった。1965(昭和40)年南恵庭駐屯の第104施設大隊1中隊長であった阿部良雄氏は、部下が此の地蔵尊付近で交通事故を起こし、地蔵尊会の人達に大変お世話になり、以来一層、地元交通安全運動に協力、当時の上司は、防衛基盤育成の観点からも、特に交通安全面でも、市民の信頼を得るよう指導されておりました。
 当市には自衛隊OBが多く永住し、町内によってはOBが30%を数える所もあります。1981(昭和56)年定年退職した阿部良雄氏は、現職当時から引き続いて、積極的に市の交通安全運動に協力行動、平成17年からは、請われて地蔵尊護持会々長となり、今度、建立50周年に当たり、在恵庭駐屯部隊、OB隊員、一般市民の間を駆け回って広く呼び掛け、7月23日地蔵尊祭り催行に当たり、地蔵尊傍らに、立派な由来の石碑を建て、当日降雨悪天候の中参列した多数の人々と共に、交通事故絶滅を誓い合った。

前期教育を終えて
富士教導団新隊員教育隊第1区隊第2班=富士 2陸士 山下竜人
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 最初に全く何も分からない状態で滝ヶ原駐屯地に来た時の感想としては、「こんな古ぼけた隊舎に3ヶ月も住めるのか」という不安と「一緒に居る人達と打ち解けられるのか」という不安で、後悔の毎日でした。また、「支給された被服の縫い物、体力練成、食事や入浴まで団体行動をしなければならないのか。なぜ自分は自衛隊の道を選んでしまったのか。もっと他の道を選択すれば良かったのではないか」と、自衛隊を辞める事も考えるほどに悩み苦しみました。しかし、こんな私を救ってくれたのは、最初に打ち解けられなかった人達、つまり同期でした。みんなも同じ悩みを持っていて同じように苦しんでいたと打ち明けられると、妙な親密感が湧き、次第に信頼へと変わっていきました。そして、入隊式も終わり班長、班付が自分達に「渇」を入れ、これから自衛官としての教育が始まることを再度実感しました。小さなミスでも連隊責任で指導され、気が休まる時間など1秒も無いと感じられる日々が続きました。
 今思うと団体生活に馴染めなかった入隊直後とはまるで別人になって成長したと自分なりに思っています。

「体験学習」
桜が原中学校3年 井村俊介
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 7月1日(火)僕は、自衛隊大村駐屯地で職場体験学習に参加しました。
 まず職場体験学習に参加して感じた事は、基本教練では、自衛隊のする行進や動きなどできて良かったです。ビデオ鑑賞では、レンジャーの訓練は、とても厳しいなと思いました。島原災害では、いつ噴火するかもわからないのに、現場に駆けつけて行方不明の人を捜すなんてとてもすごいと思いました。
 食堂では、栄養士さんがいるし、とても美味しい食事ができていいなあと思いました。ロープ訓練では、いろんな結び方を教えてもらいました。最後に、自衛隊のかっこいい車に乗せてもらいました。その1つの方はイラクに行った事がある車だったので特に嬉しかったです。
 次に自衛隊に対する感想は、自衛隊の方は、とても親切に接してくれました。自衛隊の人たちの人間関係がとてもいいなと思いました。しかも、最後、車に乗った時は手を振ってきてくれる人がいて嬉しかったです。僕も将来自衛隊に入りたくなりました。そして今回いろいろ教えてくれた方は、とてもわかりやすく優しくて、嬉しかったです。
 最後に、僕もこれから自衛隊の人達みたいに、人間関係を深めて礼儀をしっかりした人になることがこれからの目標です。

「春夏秋冬」
第15普通科連隊本部管理中隊=善通寺 先任曹長 三浦元次
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 日本は世界でも特有の気候に「四季」があります。
 さて、人の一生を80歳におきかえ「四季」に当てはめると
「春」…種をまき、栄養を育ませる時期、出生から20歳
「夏」…太陽燦燦(さんさん)、輝く時期、20歳から40歳
「秋」…実り収穫の時期、40歳から60歳
「冬」…?????、60歳から?
 私の好きな言葉に、「今が旬」があります。その年齢、その季節に応じた楽しみや味わいがあると思います。これを観られる方は「春」、「夏」又は「秋」の人たちばかりだと思います。
 さて、桜は、ご存知のとおり温度や気候が温暖になった「春」だから咲くのではなく、「冬」の気候を越えて「寒波打破」と言う行為を準備として咲くそうです。だから、人も厳しさや壁を打破して大きくなっていくのではないでしょうか、そのため一年、一生の季節は節目としての必要性とそれぞれの重要性もあるのだと思います。
 春の方、栄養を育ませてくれた人に感謝し、夏の準備を、夏の方、輝きの季節に、何事にもチャレンジし、5年先、10年先を想像して時間とお金を自己投資しましょう。そして、秋に差し掛かり半ばに達しようとしている私は、この『秋』を自分自身だけの収穫にするのではなく『感謝』の気持ちを大切にし、人に組織に社会に少しでもこれまでのお礼に何かを還元できるよう努力するとともに「冬」を念頭に入れ準備していきたいと思います。それと、私の娘たちにも栄養を育ませ、ひとり立ちの準備をさせるとともに、自分自身のこの自衛隊生活の最後の仕上げをしていくことです。

3陸曹に昇進して
第34普通科連隊第5中隊=板妻 3陸曹 山田純布
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 3等陸曹としての抱負はまず第1に後輩隊員に対し陸曹としての見本になれる様になり第3陸曹教育隊で学んだ事を中隊及び小隊で発揮できる様にしていく事です。そして第2に現在参加させていただいている徒手格闘訓練隊において優秀な成績を出し我が34連隊の精強さを残すことです。そのためにも今まで教わった全ての事を今後全力で出していこうと思います。そして自分の事だけでなく周りにも気を配れる様着意したいと思います。早く3等陸曹の階級に恥ずかしくない行動及び態度を取れる様、今まで憧れていた陸曹になれたことを自覚し、体力知力の向上に力を入れたいと思います。

「頑張っています」新しい職場
活躍するOB シリーズ
第一生命保険相互(株)契約業務士 浅山 一郎
浅山氏は平成19年7月、北部方面後方支援隊第101通信直接支援隊(島松)を2陸尉で定年退職。54歳
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 私は自衛隊での経験を活かして「人との関わりのある仕事」と考えていまいたところ、縁を得て第一生命保険相互会社に契約業務士として就職しました。
 当社は昭和20年代の頃から自衛隊出身者を採用しており、現在も全国で約220名の方が勤務し、その内約8割以上の方が私と同じ定年退職したOBの方であることは心強いです。
 今後もこの流れが継承発展されるように私も仕事を通じて、この道を広げていかなければと責任を感じています。
 私の仕事は、生命保険契約に関して事実の確認を必要とする場合に発生します。お客様は勿論、病院の医師、その他の関係者等と面談を行い、収集した事実を会社に報告するという地味ながら緊張する仕事で、社会良俗上公正・公平を基本とする保険制度を健全に維持するためには必要不可欠な業務です。
 入社当初は医学知識のない私に、お客様の健康状態に関わる仕事ができるか?との不安がありましたが、同種事案の対応をするたびに医学書を見て覚えていくので心配もなくなりました。
 先輩に教えられたことは、どんな仕事でも「これで一人前」ということはない、常に変化する社会の態様に応じて業務内容も変化していくので毎日が勉強の繰り返しである。いつまでも新人の時の気持ちを忘れず持ち続けることが大事だということです。
 今はお客様との一期一会を大切にして、常に「さわやかな業務」ができるよう心掛けています。決して楽な仕事ではありませんが、そろそろ定年が近づいてきている皆様、再就職先の選択肢の一つとして考えてみてはどうでしょう。
 仕事を通じて思うことは、「健康第一」という当たり前のことを感じています。それは、自衛隊の定年は一つの通過点にすぎず果たして二度目の定年を無事に迎えることができるかどうかは、いつに自分の行いに因るところが大きいからです。
 最後になりましたが、このように就職できましたのも、偏に援護担当者のご尽力のお陰にほかならず、親身に助言をしてくださった会社の先輩OB並びに地域援護センターの皆様に感謝しつつ今仕事をしています。


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