防衛ホーム新聞社・自衛隊ニュース
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自衛隊ニュース   2008年6月15日号
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「ヒストリアン」設置
空自1術校の業務など記録
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 航空自衛隊第1術科学校では、5月28日にヒストリアンの設置を行った。このヒストリアンとは、第1術科学校の業務、施設、装備、行事等などの移り変わりの過程及び個々のできごとを記録し、また、部内外へ広報を行う者のことを総称している。
 設置の経緯は、平成16年の50周年史を編纂するに当たって、写真(映像)の入手に苦労したため、組織的かつ計画的に行事等の記録、保管をする重要性を認識したことによる。
 ヒストリアンには、学校准曹士先任を筆頭に各部課隊准曹士先任(写真)がなり、毎年、映像史を編集し学校准曹士先任室に集中保管をすることにしている。


2部隊合同で52周年記念日行事
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 第25航空隊(司令・粟野諭1佐)は5月17日、体制移行により新編された大湊航空分遣隊(隊長・野口幸久3佐)と合同で、大湊航空基地開隊52周年記念日行事を実施した。昨年好評だったアットホームな催しを主体とした行事は、両部隊の隊員や家族との親睦を深め、部隊と家族のネットワーク作りに大いに役立った。
 催しは体験搭乗のほか、職場見学、子ども広場とバーベキュー。ヤマセによる連日の肌寒さが嘘のように暖かく穏やかな朝を迎え、体験搭乗から一日が始まった。見慣れたSH―60Jと大空分のUH―60Jの2機種での体験搭乗は、事前の希望調査では大湊に初めて配備されたUH―60Jへの搭乗希望者が圧倒的に多く、待ちかねた隊員家族が朝早くから来隊した。下北の新緑の山々、その遙か先に望む函館の街並み、眼下に広がる景色に、子供だけでなく親も興奮気味だった。
 隊員にエスコートされての職場見学では、日頃見ることのない親の勤務場所に子どもたちは目を見張っていた。航空隊を見渡せる管制塔から壮大なパノラマに見入ったり、他の家族や隊員と子どもの成長話に華を咲かせる隊員もいた。初めての赤ちゃんを上司に紹介している新婚隊員もおり、普段は厳しい表情の上司も赤ちゃんには相好を崩し、笑わせようと必死であやしている微笑ましいシーンが見られた。
 格納庫内に設けられた子ども広場(パターゴルフ、ストラックアウト、キックターゲット、輪投げ)には、搭乗前後の多くの子どもたちが集まり、腕前を競いあって黄色い歓声をあげていた。バーベキュー会場は、体育館脇に新設されたピクニックエリア。組織改編により隊員が一挙に100名ほど増え、昨年以上の入場者があるとは予想していたが、想像を超える人出に対応しきれないほどの盛況ぶりで、焼いているそばから飛ぶように売れていた。大湊ならではの釣ったホタテをその場で焼いてもらえるコーナーでは、貝の口が開くのをじっと待って上手に釣り上げる子がいる一方、なかなか釣れずに子どもよりも熱くなって何度もチャレンジする親もいて、日頃のスキンシップ不足を解消した家族も多かったようだ。
 バーベキューで満腹になった後は、恒例のビンゴゲームが行われた。景品の前にはカードを持った人垣ができ、司会者が告げる番号に一喜一憂しながら子どもたちは綺麗にラッピングされた賞品の争奪戦を繰り広げていた。天候に恵まれ楽しいひとときのうちに、初の2部隊合同による開隊記念日行事は終了した。
 なお前日には、福山・わだつみ会大湊支部長や柏谷・大湊水交会会長、小笠原・同副会長の参列のもと、白鳥の碑で慰霊祭が粛々と行われ、司会を始め各隊長、隊員代表らが15柱の英霊に菊花とともに哀悼の誠を捧げ、国の安寧と航空安全への加護を祈念した。

横地隊が馬門山墓地墓前祭に参加
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 5月17日、大津観光協会(会長・増田茂氏)、大津地区社会福祉協議会(会長・鈴木立也氏)など、6団体が主催する「第53回馬門山墓地墓前祭」が行われた。
 会場の横須賀市営馬門山墓地(旧海軍墓地)に眠る1592柱の英霊を弔うため、遺族会を始め、横須賀市長、市関係者等約200名及び海上自衛隊からは横須賀地方総監部幕僚長(山崎郁夫海将補)ら9名が参列した。
 式典は、拝礼、国歌斉唱に続き、主催者6団体代表の大津観光協会会長(増田茂氏)と横須賀市長(蒲谷亮一氏)が、祖国のために戦った英霊に対する感謝と追悼のことばを述べた。続いて、横須賀警備隊で編成された儀仗隊による拝礼の後、参列者全員が献花を行った。その後、女性自衛官2名を含むらっぱ隊が吹奏する「悲しみの譜」に合わせて儀仗隊が弔銃を発射(=写真)し、最後に全員で黙とうを行い式典は終了した。
 参列者は、御霊の遺徳を偲ぶとともに、悲惨な歴史を決して繰り返さないことを心に刻みつつ、会場をあとにした。

彰古館 往来
陸自三宿駐屯地・衛生学校
シリーズ 76
広島原爆調査資料 (2)
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 今回確認された「原子爆弾に依る広島戦災医学的調査報告」ですが、終戦後の極端に物資が不足していた時代に発行したため、発行部数は僅かだったようです。
 また、紙質は酸性のわら半紙です。すでに酸性紙の限界といわれる50年を超えた年月を経て、触るとポロポロと端から砕けてしまうような状態です。
 貴重な原本資料を今後どうやって継承していくか、選択の余地は余りありません。一般的には、酸性紙を中性紙化する処理があります。しかし、ここまで原本の状態が劣悪の場合は、紙としての補修が必要になります。最新のキャスティング法という補修法は、紙を漉く過程に劣化した原本そのものを織り込む方法です。
 市ヶ谷台で、旧陸軍の大本営が焼却した、燃え残りの文書が大量に発見された際にも採用された技法です。
 キャスティング法を採ることで、中性紙化や電子ファイル化の作業は格段に効率化するという、副次的な効果も期待できます。
 こういった役務は、なかなか予算化が難しい側面がありますが、歴史保存の観点から必須の作業です。
 今回、調査報告書と同時に確認された史料に、占領軍の調査団のためにこの報告書を英訳したメディカル・レポートがあります。B4版わら半紙100ページに、タイプで打たれたものです。こちらは、従来知られていなかった史料です。占領下での報告書なので、純然たる医学の学術資料としての体裁を採っており、日本語版のような「敢闘空しく倒れたる多数の同胞の霊に捧げる」といった叙情的な文章は1行もありません。逆に、淡々と事実を客観的にタイプで打ち込んである、その冷静さが、逆に原爆被害の凄惨さを無言で伝えています。
 基本的には「原子爆弾に依る広島戦災医学的調査報告」の英訳ですが、同じ内容でもずいぶん印象が違うものです。このメディカル・レポートも、やはり早急に補修作業が必要です。
 この報告書が発簡された昭和20年(1945)11月30日には、学術研究会議が主催する原子爆弾災害調査研究特別委員会の報告会が開催されております。今回の調査で、その速記録も確認されています。
 学術会議は、医学面だけではなく、物理学化学学科会の物理班、同じく化学班、同じく地学班、生物学科会、機械金属学科会、土木建築学科会、農学水産学科会からなり、それぞれの専門分野から、調査研究の中間報告が出されております。
 当然のことながら、会議が開催された同日付けで廃校となった陸軍軍医学校の名前は、速記録には記載されておりません。「原子爆弾に依る広島戦災医学的調査報告」を最後に、陸軍医学校と臨時東京第一陸軍病院の名前は、公文書から永久に姿を消したのです。
 陸軍軍医学校としては調査・研究活動を終えましたが、ほかにも翌昭和21年(1946)、2月26日に開催された第2回原子爆弾災害調査研究特別委員会報告会速記録や、100枚を超える図表、報告書が確認されています。これらの一次史料も、現在の医学の目で見た再評価を急いでおります。

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