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   2007年12月15日号
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市ヶ谷台ツアー
見学者20万人超える
盛大に記念セレモニー
 平成12年に防衛省が市ヶ谷に移転してから始まった「市ヶ谷台ツアー」の見学者が12月4日、約7年半の月日を経て20万人を超えた。
 この日午前9時半すぎ、市ヶ谷記念館玄関前に寺田稔政務官、山本達夫内局広報課長をはじめ広報幹部が出迎える中、午前のツアー参加者約30人が到着。白石正実部員の司会進行で「20万人目達成記念セレモニー」が始まった。次いで、井上康史主任(元3陸尉)が、そのツアー参加者の中からちょうど20万人目にあたった方の番号、氏名を発表すると、周囲から大きな歓声と拍手が沸き起こった。
 晴れて20万人目に輝いたのは埼玉県久喜市在住の島田武夫氏(65)で、寺田政務官から花束や記念楯などが贈られた。次いで、寺田政務官がツアー参加者を前に20万人達成を祝う挨拶に立ち、市ヶ谷台の歴史や自衛隊の国内外での活躍ぶりなどを紹介しながら「今後とも防衛省・自衛隊の広報活動にご理解、ご支援を」と要望した。
 記念撮影に続いて、先進個人装備システム(通称ガンダム)の体験試着も行われた。記念すべき20万人目という幸運に恵まれた島田氏は「新聞、テレビなどで同じような形式のセレモニーを何度も見たりしていましたが、まさか今日自分がその僥幸に与るとは思ってもいませんでした」「以前の職場の同僚6人でツアーに参加しましたが、その仲間とともに今日はすばらしい一日になりそうです」「広報担当者の方々には大変感謝しています。本当にありがとうございました」など喜びを語った。
 ※「市ヶ谷台ツアー」申込み方法など詳しくは防衛省ホームページをご覧下さい。

コンプライアンス・ガイダンス発刊
《防衛監察本部》
理解し易いよう紙面に工夫
不祥事再発防止と法令遵守の認識図る
 防衛監察本部では、防衛省・自衛隊の組織全体の健全性を確実にするため、法令遵守の観点から第三者的な目で業務が適正に行われているかを厳しくチェックし、業務上の問題点を発見するとともに、その改善策を防衛大臣に提言することを業務として設立された組織であり、防衛監察監以下事務官26名、自衛官27名の計53名が所属しています。
 この度、同本部では、防衛省における不祥事事案の再発防止と、職員の法令遵守の認識を深めるために「コンプライアンス・ガイダンス」を作成し、公表したところであり、今年度内には中隊レベルまで配付することを予定しています。この冊子は、防衛省職員として守るべき事項をまとめた業務の手引きであり、防衛省の各機関・部隊における服務指導や各種法令遵守の研修資料として用いることが想定されています。このため、手に取りやすく読んで理解しやすく防衛省職員全員が使用できるよう紙面が工夫されています。
 内容は、「巻頭言」「コンプライアンス・テスト」「はじめに」「総論」にはじまり、次いで、「各論」は、▽秘密を守ること▽個人情報保護▽官製談合▽セクシュアル・ハラスメント防止対策▽薬物乱用防止▽公益通報について、で構成されており、それぞれ、(1)防衛省全体としての取組、(2)その制度・規制はなぜ設けられているのか、(3)違反行為を行うとどうなるのか、(4)代表的な法律等について説明がなされています。この他「別紙類」「むすび」の合計8項目で構成され、「我が国の防衛と国際平和という崇高な任務に携わる防衛省・自衛隊に対する国民の信頼をゆるぎないものとするためにも、このコンプライアンス・ガイダンスを熟読し、職員ひとりひとりが、日々、法令遵守に対する意識を保持していくよう」呼びかけています。
 〈コンプライアンス・ガイダンスに関する意見提案窓口〉
 〒162-8807東京都新宿区市谷本村町5の1 防衛監察本部総務課企画室「コンプライアンス・ガイダンス」担当〈E-mail〉〈HP

《彰古館 往来》
陸自三宿駐屯地・衛生学校
〈シリーズ70〉
後藤七郎軍医の足跡
第一次世界大戦の記録 (7)
 彰古館の第一次世界大戦写真帖には「陸軍三等軍医正医学博士後藤七郎」と記載があります。
 後藤軍医は、明治13年(1881)の福岡生まれで、日露戦争直後の明治40年(1907)に京都帝国大学福岡医科大学を卒業、三等軍医に任官しています。第一次世界大戦後の明治42年(1909)に京都帝国大学大学院、明治44年(1911)には九州帝国大学大学院に学び、大正8年(1919)には陸軍軍医学校教官兼九州帝国大学医学部教授、第二外科部長兼任、後に付属病院長、昭和17年(1942)に退官となります。最終階級は陸軍軍医監(少将相当官)でした。
 後藤軍医の持ち帰れなかった情報が、当時の最新兵器の航空機と毒ガスに関するものでした。写真帖には印刷物が一枚だけありますが「独逸航空機“たうべ"カラ投下シタ爆弾ニヨリ破損シタル英国軍傷者搬送自動車」と記載されています。
 写真以外に「輸血」と「口腔外科の顎顔面領域戦傷治療」の情報も伝えています。
 輸血に関しては、1900年にABOの血液型が発見されるまでは、羊の血液を輸血していました。翌年AB型が発見され、輸血は日常的に行われることになります。後藤軍医は日本で初めて輸血を行った外科医です。
 顎顔面領域に於ける戦傷治療は、大正年間から昭和初期にかけて、陸軍軍医学校の口腔外科で確立しており、彰古館には多数のカルテと写真が残されています。
 後藤軍医の第一次世界大戦の医学情報が、軍陣医学の新しい扉を開いたのです。

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