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   2007年10月15日号
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チリ海軍帆船、晴海に入港
《横監》
日智修好110周年祝う
 チリ海軍練習帆船「エスメラルダ」(艦長・海軍大佐 ウンベルト・ラミレス・ナバーロ、士官候補生49名)が9月2日、第52回練習航海に際し、晴海に寄港した。今年は、日智修好110周年にあたり、記念行事の一環として「エスメラルダ」が訪日したもので、3年ぶり14回目の訪日。海上自衛隊からも練習艦隊が今年6月にチリに寄港している。チリは親日国家であり、両海軍の関係は歴史的にも深く、海上自衛隊とチリ海軍との関係も艦艇相互訪問を中心として、長年にわたって友好関係が積み重ねられている。また、チリ海軍は外国士官招へいプログラムを実施しており、10カ国からの参加がある。海上自衛隊からもグアムから晴海までの約1ヶ月の間、3海尉1名が乗艦研修を実施した。晴海入港中は、第21護衛隊(司令・大塚海夫1佐)、護衛艦「さわゆき」(艦長・米丸祥一2佐)がホストシップとして支援を実施した。
 滞在の間、入港歓迎行事、国旗掲揚行事をはじめ、艦艇相互見学や、「さわゆき」乗員とのスポーツ交歓(サッカー)、東郷神社訪問、横須賀研修における防衛大学校研修、「三笠」研修など、様々な行事が行われ、両国相互間の理解が深められた。また、チリ海軍司令官主催のレセプション、第21護衛隊司令主催のレセプションもそれぞれの艦上で開催され親善を深めた。夜間は両艦ともに電灯艦飾を実施し、晴海の夜景に彩りを添えた。
 期間中、台風9号に見舞われたものの、無事全ての行事を終え、9月9日次の寄港地であるハワイ(パールハーバー)に向け出港した。最後に横須賀沖で登舷礼を実施し、別れを惜しみつつ「エスメラルダ」を見送った。

インド洋から帰国
《はまな》
 テロ対策特別措置法に基づきインド洋方面で協力支援活動等に従事していた補給艦「はまな」(艦長・井元啓人2佐)乗員約140名が8月26日、約5カ月ぶりに佐世保に帰港した。
 当日は、暑い日ざしが照りつける中、「はまな」乗員家族、自衛隊後援会、佐世保所在各部隊指揮官及び隊員ら約370名が参列し、帰国行事が行われた。「はまな」艦長は「無事任務を完遂し、全員帰国することができました。ありがとうございました」と帰国のあいさつを述べた。これに対し、潜水艦隊司令官は「協力支援活動だけでなく、7月12日、オマーン湾で沈没した貨物船の捜索救助に際しては、いち早く現場に急行し、沈没船の乗組員を救助・収容し、海上自衛隊の名を遠く中東の地に轟かせたことは賞賛に値する」と香田洋二自衛艦隊司令官の訓示を代読した。家族らは、無事帰国した隊員の労をねぎらっていた。
 「はまな」は呉の補給艦「とわだ」と並び6回目の派遣で回数は最多となる。また、複数回派遣された隊員で6回目となる者も1名いた。

ホンジュラスで海自練艦隊記念切手発行
 昨年7月18日から21日の間に、平成18年度遠洋練習航海部隊(練習艦「かしま」「やまぎり」、護衛艦「あまぎり」で編成、練習艦隊司令官・佐々木孝宣将補、人員約750人)が、ホンジュラス共和国のプエルトコルテスに寄港したことを記念して、同国で記念切手が発行されていたことが分かった。
 これは、2005年に、日・ホンジュラス外交関係樹立70周年を契機として設立された日・ホンジュラス友好委員会(日本側は大使館、JICA、在留邦人代表、ホンジュラス側は関係省庁、大学、民間セクター等より構成)のメンバーである郵政公社総裁の提案に基づいて発行されたもので、図柄には、2006年の2国間の友好親善の象徴となる出来事を記念するとともに、日本のホンジュラスへの協力に対する感謝の意を表して、遠洋練習航海部隊に関する写真と、JICAの活動に関する写真が採用されている。
 この記念切手は、昨年12月に日本国大使館が開催した「天皇誕生日レセプション」(毎年開催される日本のナショナルデー)の場で、郵政公社総裁より披露された。ちなみに、外交70周年を祝う切手は2005年末に発行されており、過去にも、1998年のハリケーン災害(自衛隊が初の国際緊急援助活動を実施)で倒壊した橋の復旧時や、2003年の紀宮様のホンジュラス来訪の際にも記念切手が発行されている。
 昨年の遠洋練習航海部隊のホンジュラス寄港は、31年ぶり2回目であったが、「かしま」での艦上昼食会にホンジュラス大統領をはじめとする主要閣僚が来艦したほか、各艦乗員・実習幹部と、ホンジュラス海軍軍人・プエルトコルテス市民とのサッカーの親善試合にはワールドカップさながらのセレモニーが行われ、出港後にはホンジュラス共和国海軍と親善訓練が実施されるなど、国家的な行事としての歓迎を受けたという。また、寄港中の艦内一般公開には、1日に5000人もの来艦者が押し寄せ、音楽隊による演奏会にも会場に入りきれないほどの観客が詰めかけるなど、市民レベルでも極めて高い関心を集め、好意をもって受け入れられた寄港だった。

彰古館 往来
陸自三宿駐屯地・衛生学校
<シリーズ 68>
戦地に於ける医療施設
第1次世界大戦の記録 5
 当時のフランス軍医部は、戦争が長期化するに及んで、戦地病院から兵站病院に至る治療施設は充実した設備となっていました。
 今回発見された写真帖に見られる施設は、連合国各国の国情の違いもあり、実に多種多様です。
 戦地病院は特にその傾向が強く、簡易な天幕から戦地急造病舎、ドーム型やプレハブ式、コルゲート型(波型ドーム、ニッソン氏鉄板応用病棟)など変化に富んでいます。
 特徴としては、どの医療施設も明るく、採光に配慮した上に内部を白くペイントして閉塞感を失くす心理的な配慮が施されています。
 特に手術室は、戦地病院においてさえ清潔感があり、整理整頓がされています。もちろん、大量の負傷者が搬入されて来れば一変して修羅場と化すわけですが。
 戦地病院に於いても、X光線室、毒物検査室、重傷者収容病室、軽傷者収容病室、外科病室、骨折専門病室、伝染病病室など細かく分類されています。また、衛生材料倉庫、薬品庫、包帯材料室など補給面も怠りありません。
 これらは大戦勃発時から準備されていたものではありません。毒ガスや航空攻撃、戦車の出現などの新兵器の投入によって戦争が長期化したことがその要因のひとつです。また新兵器による多様化した傷病兵の増加に伴い、医療関係施設が順次整備された結果なのです。
 日露戦争の医学情報の伝播も役立っています。
 90年前とは思えない、先進的な施設が理解できます。

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