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   2007年5月15日号
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彰古館 往来
陸自三宿駐屯地・衛生学校
〈シリーズ63〉
彰古館に残るルーツ
日本薬局と陸軍
 医療行為には、治療と一体化して薬剤が必要となります。その薬剤使用の根拠となるのが「日本薬局方」で、昨年は明治19年(1886)の制定から120年目、第15改正を迎えております。
 ところが陸軍では、日本薬局方制定以前に、既に薬局方が発刊されていました。
 明治4年(1871)、軍医寮八等出仕だった石黒忠悳は、軍医頭松本の許可を受け「軍醫寮局方」を執筆しました。これが、我が国初の薬局方なのです。
 巻頭言には「軍醫寮薬局の製剤、ことに日々多用する品目を抄録して、製剤とともに各隊屯営医局に頒布し、調剤の量に誤りが無いように注意を要する」と書かれています。軍醫寮局方は、軍医が懇意の薬問屋から多種多様の薬剤を処方することを危惧し、一元化した薬剤リストの必要性を感じた石黒が、当時入手できた英国薬局方、和蘭局方から、軍用として使用頻度の高い薬種のみを抽出したものです。内容は、丁幾(チンキ)剤、酒剤、水剤、煎剤、浸剤、酸類、精剤、散剤、膏薬部(軟膏、硬膏、絆創膏)、など製剤類130種からなり、その多くは英国局方から引いたもので、主に薬剤の配合比を示したものとなっています。
 翌明治5年(1872)、兵部省は陸軍省と海軍省にそれぞれ昇格し、新生海軍軍医部は「官版薬局方」を発刊することになります。英国薬局方を翻訳したもので、330種の薬種が記載されており、我が国で初めて「薬局方」の名称を冠した書物といえます。
 松本順は「現在使用している軍醫寮局方は、近年においては不足があり、第二版を刊行する必要がある」と参謀局に上申し、明治11年(1878)11月、軍醫寮局方の続編として「陸軍病院薬局方 第二版」が発刊されます。西南戦役の経験から、多種多様に増えた薬剤に対応するためです。
 編集には陸軍二等薬剤正の大澤昌督が当たり、校閲は同じく二等薬剤正の松永東海です。ポンドからグラム表記への変換の対比表と、新たに越幾斯剤、蜜剤、丸剤を追記し、198種が記載されています。
 巻頭言で大澤は「我が国に未だ薬局方が選定されていないため、止むを得ず本書を発行する。第三版の発行をすることなく、日本局方の選定されることを切に希望する」と述べています。
 明治13年(1880)11月、明治政府は各国に習って日本薬局方を編纂することを決定し、内務省は日本薬局方編集委員会を発足させます。松本順、林紀、緒方惟準、石黒忠悳ら陸軍軍医もそのメンバーでした。
 日本薬局方は明治19年(1886)6月に発布、翌年7月1日に施行し、陸軍はこれを準拠することになり、陸軍病院薬局方は廃刊とされます。
 しかし日清戦争(1884〜85)に際して、戦時に通用する陸軍独自の薬局方の必要性に迫られ、明治31年(1898)8月に「陸軍薬局方」を編纂しました。以来4版まで刊行されています。
 陸軍の消滅とともに陸軍薬局方はその役目を終えました。彰古館の所蔵史料は日本薬局方のルーツが明治陸軍にあった事実を、無言で証明しているのです。

「頑張っています」 新しい職場
活躍するOB シリーズ
水野建設(株) 大沢孝二郎
大沢氏は平成17年12月、空自第22警戒隊(御前崎)を曹長で定年退職。55歳
 昨今、テレビ等で賑わしています浜岡原子力発電所内の水野建設株式会社に就職して1年がたちました。充実した毎日を送るために楽しく仕事をするよう心がけています。50歳代半ばで定年を迎え、再就職する皆様方においては誰もが不安を感じておられると思います。自分の希望(職種・勤務態勢及び給料)にあった求人は少なく、非常に厳しいのが現状です。再就職にあたって大切なことは、自己のセールス・ポイントをアピールすることですが、面接等だけで相手側に全てを伝えるのは非常に困難であると実感しました。数少ないチャンスに備え、今から「健康管理」を十分行い、再就職に備えていただきたいと思います。若い頃から取得してきた免許や資格は決して無駄ではありません。30数年間に自衛隊で培った知識及び技能は、一般社会において十分通用するものであると確信しております。皆さん自信を持って再就職に臨んでください。
 これから定年を迎える人へ、何よりも健康でなければ何もできません。最近メタボリックシンドロームなる病名が聞かれますが、予防法として毎日の生活に体を使う時間を作ることが必要であると思います。今の社会には自分で体を動かす努力をしないと運動量がどんどん減ってしまう世の中です。仕事内容も昔と異なり、椅子に座ってパソコンを操作する時間が長くなっていると思います。エスカレーターに乗らずに階段を使う、車で5分の距離は歩いて行くというように毎日の生活の中でできるだけ体を使う機会を見つけてはいかがでしょうか。健康こそが、仕事に、生活に、趣味に欠かせない人生をエンジョイする要になると思います。

千早城址を研修
古戦場訪ね、愛国心養う
「ちはや」
 潜水艦救難艦「ちはや」(艦長・田中太彦1海佐)は4月11日、大阪府堺市の堺泉北港に初入港した。寄港中11、12日の2日間、のどかな山間に残された千早赤阪村の古戦場を訪ね、忠臣として有名な南北朝時代の武将、楠木正成の苦闘の痕跡をたどる史跡研修を実施した。
 大阪府と奈良県の境に峙つ標高1125mの金剛山は、幾重ものひだのような尾根を河内平野に広げている。「ちはや」の艦名の由来となった千早城はその尾根のひとつに楠木正成が築いた城である。
 ちはや乗組員は阪神基地隊(司令・佐々木孝宣海将補)の支援を得て、ふもとまで大型バスで移動した後、約560段の急な階段を登り、息を切らして千早神社にたどり着き、千早城址の研修を実施した。楠木正成が鎌倉幕府の大軍を翻弄した城として有名な千早城で、国家に仕える自衛官として平和を希求する精神を学ぶとともに、愛国心を養った。
 また、入港中には堺市及び千早赤阪村の方々から熱烈な歓迎を受けるとともに、大阪地方協力本部の支援を得て、艦内見学等を積極的に実施し、海上自衛隊の広報に努めた。

「不易流行」
第15普通科連隊長 1陸佐 廣塚 雅史
 俳聖・松尾芭蕉の言葉と伝えられる「不易流行」という言葉がある。「不易」とは、俳句の根本である五・七・五の十七音形や季語等の不変条件を鉄則として維持すること、「流行」とは世界一短い詩形である俳句が陳腐化せぬよう絶えず新しい句材や表現法を求めて変化させていく事であり、表現法等の創意工夫という改革を推進しながら俳句本来の根本事項を変えず「風雅の誠」として集大成すべしという意味である。言い換えれば、情勢の変化の中で「新たに変えるべき事項」と「決して変えてはならない事項」があると理解される。
 軍隊においても、軍事技術の進歩から戦闘様相が広域・流動・全天候化し、統・連合作戦が常態となり、湾岸、ソマリア、コソボ、9・11テロ、アフガン、イラクという戦争(紛争)の流れの中で、敵が本来の正規軍から民兵・国際テロ組織といったゲリラ組織へと変質し、所謂不正規戦がその焦点となっている。また、情報化社会の特性として戦場の様相が茶の間のテレビで評価(監視)され、戦勝に繋がる戦果よりも日々の死傷者の増加が世論を動かし、政権担当者は国民意識や国際世論を考慮しつつ政治目的を主体として作戦の目的・目標・手段等を制限するという戦争形態に変化している。
 「新たな戦い方」「敵の変質」「世論を考慮した作戦目的の制限」が軍隊における「流行」だとすれば、「不易」とは「武装集団としての精強性の追求」と「組織の健全性の維持」であろうか。如何に装備がハイテク化しようと、それを人がコントロールする限り部隊存立の基盤である規律維持や隊員の識能・資質の向上、部隊の伝統の継承と後継者育成への情熱と努力は決して変えてはならないものだと思う。

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