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   2007年2月15日号
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NAHAマラソン開催!!
那覇防衛施設局から20名参加
《沖縄》
 “太陽とジョガーの祭典"第22回NAHAマラソンが12月3日に開催され、県内外から2万名余が参加し過去最高の大会となりました。那覇防衛施設局からも20名が参加し、13名が完走を果たしました。
 〈完走者〉▽(総務課)池田好、喜久川裕晃▽(会計課)大井敏光、宮國さきえ、早川秀男▽(施設企画課)桝賀政浩、浦川信幸▽(施設取得第四課)田中元樹▽(業務課)安里武晴▽(施設対策第一課)宇地原康史▽(建設企画課)谷口晋介▽(設備課)佐田義博、鈴木文敏
施設部施設企画課 浦川信幸
 NAHAマラソンへの参加は、一昨年に続いて2回目で、36歳の初マラソン(筑波)から5回目のフルマラソン完走となりました。
 当日の天候は曇り、気温19℃、微風と願ってもないコンディション。知花くららさんを見ながらスタート。10キロ、「早すぎるぞ。調子良いのかな?」。20キロ、「予定より10分も速い。まずい」。30キロ、「足が痛くなってきたぞ、残りを1時間でOKか?」。35キロ、「そろそろ足が限界だな、ここからは修行僧になったつもりで我慢我慢」。そして、ゴール。3時間15分33秒、「疲れた〜」ヘトヘトになりながらもゴールでき、ほんとに安堵しました。
 NAHAマラソンの良さは、沿道からの沢山の応援と食べ物(バナナ・ミカン・そばもある)と、何よりも暖かさを感じながら、楽しく走ることができる点だと思います。沿道の方々及びボランティアの方々に感謝いたします。
 昨年、残念ながらエントリーできなかった人、完走できなかった人、今年皆で楽しく参加しませんか?メタボリック症候群になりかけている(なっている)人、目標を定めると日々の生活が変わってきます。NAHAマラソンをそのきっかけとしては?

自衛隊音楽祭りに参加
第4地対艦ミサイル連隊
隊士長 齋藤 裕美
 私は昨年、日本武道館で行われた自衛隊音楽祭りに八戸陣太鼓として初めて参加しました。武道館の大舞台で演奏できることに喜びを感じる反面、それに恥じない演奏をしなければならないことにプレッシャーを感じ、課業後も先輩方の指導の下一生懸命練習しました。
 武道館の公演の中で自衛太鼓は全国から選ばれた12個の太鼓チーム約200名が合同で演奏します。今年のテーマは「鼓動」。
 ステージに立つと眩しすぎるスポットライトに不安や緊張は掻き消され、ただみんなで演奏できる喜びでいっぱいになり、約200名の打ち手全員が一つになった「鼓動」に何度も胸が熱くなりました。会場にはドンドン、ドンドンという繋がってゆく命の力強さが響き渡り会場もまた一つになったような最高の公演でした。これからは、武道館で得たことをより多くの人に伝えていけるよう、更に練習に力を入れていきたいと思います。

《彰古館 往来》
陸自三宿駐屯地・衛生学校 <シリーズ 60>
陸軍軍医学校の残照(2)
『行幸記念碑』
千載に伝える軍医達の思い
 終戦時、陸軍軍医学校は東京の新宿区戸山町に所在しました。現在の厚生労働省戸山研究庁舎は、この陸軍軍医学校跡地の中央部分三分の一ほどに相当します。
 現在、戸山庁舎には、国立感染症研究所、独立行政法人国立健康・栄養研究所が設置されていますが、陸軍軍医学校の本部庁舎、講堂、第一病棟、第三病棟など中枢部だった地域です。
 この戸山庁舎地域の最北部には、現在彰古館が管理している所蔵品を展示していた「標本館」がありました。奇跡的に戦災から難を逃れた標本館は、戦後、国立予防衛生研究所として使用されていたのです。
 この庁舎の最北部に、今でも軍医学校ゆかりの記念碑が現存しています。
 昭和4年(1929)11月7日、昭和天皇が陸軍軍医学校を行幸されます。衛生学教室では第一教室から第九教室を親しく見学され、特に被服地質、兵食研究の業績では立ち止まられて、予定時間を超過して熱心にご覧になられました。
 12月24日にはご案内した小泉親彦教官(後の厚生大臣)を表御座所にお招きになり、2時間近くも天皇皇后両陛下が衛生学的研究についての御講義を受けられました。
 昭和12年(1937)建立の陸軍軍医学校五十周年記念塔に、この御講義の様子がレリーフで再現され、彰古館に現存しております。
 昭和5年(1930)、小泉教官は、行幸の記念碑を建立する計画を立てますが、碑文の揮毫を陸軍衛生の始祖、第五代軍医総監の石黒忠悳に依頼します。体調不良から延び延びになっていましたが、昭和11年(1936)の陸軍軍医学校五十周年に実現したものです。
 6月6日に地鎮祭を執り行い、7月13日に除幕式の運びとなりました。陸軍大臣の寺内寿一、小泉親彦医務局長、石黒忠悳の子息忠篤(終戦時の農林大臣)など60名が臨席し、寺師軍医総監御令嬢の手で、紅白幕が落とされました。
 高さ8尺8寸(265cm)、幅3尺7寸(130cm)、厚さ6寸(20cm)、台座を含む高さ1丈3尺(4m30cm)の堂々たる一枚岩です。
 東京大空襲で壊滅した新宿も副都心として変貌を遂げました。「千載に伝える」軍医達の思いか、この一角だけは時間が止まり、記念碑は偉容を変えることなく、静かにここにあります。

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