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   2006年10月15日号
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北鎮記念館を訪ねて
京都府  湊 敏
 今年の8月9日(水)、防衛庁自衛隊京都地方協力本部、福知山地域事務所の山口明彦広報官のご配慮により私ども家族は、陸上自衛隊旭川駐屯地を訪ねた。亡き父が昭和18年に旧日本陸軍第七師団工兵第七連隊(北海道旭川)に所属していたことを、生前よく聞かされており、いつか訪れたいと考えていた。その思いは高齢の母に強く、また、息子が旭川の教育大学に進学していることもあり、この夏の訪問となったのである。
 余談だが、父は、京都伏見の陸軍自動車学校昭和14年度幹部候補生であった。昭和16年頃、陸軍中尉として中国漢口の第七師団架橋材料部隊(原隊が北海道旭川)の小隊長から羅漢寺警備隊長として勤務していたが、昭和17年の12月下旬、旭川附を命じられ上海港を出帆し昭和18年1月に旭川に到着、内地帰還した。旭川では、輜重兵七連隊将校として配属されていたが、僅か12日間で召集解除されている。その時のことを手記に綴っている。「北海道旭川は雪一色に包まれ、街は馬そりが走っていた。久し振りに一般人となり、温泉につかり戦地の垢を落とした」とある。当時の極寒旭川を想像した。その後、父は韓国の光州公立農業学校で教鞭をとり、再び召集され済州島警備中隊長(大尉)として終戦を迎えている。(※「輜重」とは旧日本陸軍で武器・弾薬・糧食・被服などの軍需品の総称をいう)
 旭川駐屯地には北鎮記念館があるとお伺いし、父を偲ぶ資料や当時の第七師団の様子を知ることができるのはないかと見学させていただいた。山口広報官や福知山自衛隊担当者からの事前の連絡を入れていただいたこともあり、司令職務室広報幹部の平塚清隆2等陸尉様が正面玄関で待ち受けていただき、館内を丁寧に案内していただいた。
 北鎮記念館は、明治・大正・昭和・平成とその時代ごとの軍隊の姿を垣間見ることが出来る貴重な資料が展示されていた。かつて軍都として栄えたころの旭川をしのばせる屯田兵と師団に関する資料も多く展示されている記念館は、正に貴重な文化遺産であると感じた。一方、そのように歴史的、文化的価値を感じさせる重厚な雰囲気とは別に、館内の一角には現在も音を奏でることが出来る日本では数少ないステッセルのピアノが展示されていたこと、作家井上靖氏が軍医の父の関係で旭川育ちであったこと、日本に初めてスキーを紹介したレルヒ中佐の原板の写真に対面できたことなどもあって、親しみを覚えるとともに味わいある資料館であると思った。少し、手狭な感じがしたが、新たな記念館が建設中と聞き安心した。
 案内していただいた平塚様から当時、上川と呼ばれた旭川に多く住んでいたアイヌの人々との交流・協力に対する感謝の念と屯田兵の開拓者精神をたたえる言葉を聞き、(碑文)北鎮第七師団址地之碑を改めて読み返した。
 『北鎮第七師団の将兵は頑健にして克く苦難に耐え厳々として任務に邁進し又戦闘にあたっては勇猛果敢常に勇名を轟かせていた。特に、日露戦争において旅順要塞の死命を制する二〇三高地を猛攻奪取して開城を余儀なからしめた偉功は日本陸軍の華と謳われ又世界戦史上稀にみる戦例として後世に残されている。明治二十九年五月屯田兵部隊を増強して第七師団の編成を完結してから昭和二十年終戦に至るまで実に五十年の間、北海道唯一つの常設師団として主力を旭川に一部を札幌及び函館に駐屯して外戦又は北海道の防衛に任ずると共に屯田兵の開拓者精神を承け継ぎ道民のシンボルとして最も親しまれ敬慕されていたのである。』
 北の防衛の拠点、自衛隊旭川駐屯地の歴史的基盤を築いた先人に合掌した次第である。
 その日は、ご配慮により旭川駐屯地司令の田中達浩陸将補との思いがけない面会の機会を得て、87歳の母も恐縮していたが、自衛隊の任務や市民に対する司令の思いが心に浸みた。旭川市民に愛され、旭川市民とともに歩む自衛隊旭川駐屯地の過去の歴史のほんの僅か1ページであっても父が関わっていたことを誇りに思った。

《彰古館往来》
陸自三宿駐屯地・衛生学校
シリーズ 56
日露戦争の記録12
赤十字病院側の要求
 明治38年(1905)3月の奉天戦終了に伴う赤十字社病院接収後、直ちに調査が行われます。当時の赤十字条約第二条(患者処置中の戦地病院勤務者は、中立の立場で業務を継続できる)、第三条(敵の管理下にある勤務者は、本務を継続するか、原隊に復帰するかを選択できる)に基づくものです。
 3月13日、赤十字病院に対する調査結果が森林太郎第二軍軍医部長に報告されます。「本務の継続」と「帰還の際には前哨線を通過しての帰国」の要望、撤収に当たっては「自国患者と共に日本への後送」を希望する者が多数、「本国に帰国」を希望する者少数というものです。翌14日、赤十字社病院総監督が第二軍参謀長大迫尚道少将と森軍医部長を訪問して赤十字病院の要求を伝えます。当初は、ロシア語通訳官陸軍教授小嶋泰次郎が通訳しますが、総監督がドイツ語に精通しており、ドイツ語に堪能な森軍医部長が直接対話することになります。
 総監督は「勤務員の去留の希望は、報告のとおり」とした上で「ロシア側の希望を全て飲むことを、最初に要望する」と強硬な態度を取ります。
 森軍医部長は「赤十字病院保有の器具材料は、病院勤務員の撤収時に、持ち出して携行しても良い」と告げますが、総監督は「器具材料は私物品を除き、後続病院に供するため残置する」と答えます。
 更に森軍医部長は「露軍第四十三野戦病院は、赤十字社病院と異なり、赤十字条約に規定する戦地仮病院に相当するので、器具材料は全て野戦病院に帰属する」旨伝えます。
 赤十字条約を熟知している森軍医部長を信頼したのか、総監督は初めて「糧食が欠乏」している事実を訴えます。森軍医部長は「一切の要求を聴く」ことを約束して会談は終了します。
 対応は迅速で、各師団は直ちに患者食の給養、薪炭・炊嚢具等を交付します。軍司令官名でブランデー5樽を赤十字社病院・野戦病院の職員に贈与、また軍医部長名で牛肉、牛乳、砂糖を同病院入院患者に贈与。16日、軍経理部は患者全員に対して、焼鳥、生肉各40匁、生野菜80匁、紙巻煙草20本を給与します。
 こうして各国見学武官が注目する中、森林太郎軍医部長は、赤十字社病院総監督の要望に応えたのです。

「頑張っています」新しい職場
活躍するOBシリーズ
「再就職は現役の延長である」
アルバック東北(株)  毛利 隆吉
平成15年6月、海上自衛隊八戸航空隊を2佐で定年退職。58歳
 再就職の厳しい社会情勢の中、八戸合同援護調整所の紹介により、アルバック東北株式会社に就職し、早や3年が過ぎました。
 弊社は、真空技術を基盤とした各種の生産設備を製造する株式会社アルバックのグループ企業の一つです。製造に徹した会社のため、飾り気はないものの、生き生きとした職人気質の社員が多いのが特徴です。
 私は入社以来、一貫して部品の圧力検査を担当しています。前任者のOBから約1年にわたって指導を受けるとともに、会社から検査に必要な各種の資格を取得させて頂き、今では、真空装置に関する日本の代表企業の一員として、自信を持って勤務しています。
 液晶パネル製造装置をはじめとする装置の大型化に伴い、工場内では高所、重量物作業が多くなっています。私が担当する部品も、100キログラムを超すものが多く、テストベンチへの揚げ降ろしにはクレーンが欠かせません。このため、会社はその命運を賭けて、労災事故防止に取り組んでいるところです。
 毎朝礼時の「ひやり、ハット」の紹介、危険予知、指差呼称の唱和、定期的に行う安全パトロール、安全教育など、かつて自衛隊現役時代に経験した方法を、実に真剣に実施しています。
 安全守則や作業手順の順守など、約35年の自衛隊勤務で培った安全意識は今の勤務でも十分通用しますし、そのような意識に裏打ちされた勤務態度こそ、私たち自衛隊OBに求められる優れた資質であると思います。
 かつての自衛隊の上司は、「再就職は、第二の人生に非ず、現役の延長である」と諭してくれました。その言葉の意味が、今やっと分かってきたような気がします。
 本当の第二の人生が始まるまで、健康に気を付けて元気で、今の仕事を続けたいと願っています。

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