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   2006年1月1日号
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額賀長官に中間報告書を提出
看護師の在り方に関する懇談会
「修業年限4年に」「災害時危機管理能力の養成」
など提言
 防衛庁・自衛隊の看護師養成の在り方に関する懇談会座長の西岡清・横浜市立みなと赤十字病院長が12月1日、大臣室を訪れ、額賀長官に中間報告書を手渡した。
 この懇談会は、防衛庁長官の私的諮問機関として、防衛庁・自衛隊における近年の国際平和協力業務等の多様化した任務に適切に対応する看護師を確保・養成するため、部外有識者による専門的な観点から提言を得ることを目的として、これまでに9月29日、10月28日、11月28日の3回開催されている。
 今回、中間報告として年度末に報告される最終報告の前に、防衛庁・自衛隊に必要な看護師をいかに養成すべきかについての基本的な意見を取りまとめて西岡座長と副座長の竹尾惠子・国立看護大学校長から額賀長官に報告したもので、報告書に記載された主な意見は「防衛庁・自衛隊の任務、活動の中で、看護師が果たすべき役割を考えれば、修業年隈を4年間に延長すべき」「幅広い教養と人間性の涵養、実践的な臨床能力、災害時の危機管理能力などを教育に盛り込むべき」などとなっている。
 また、「自衛隊の医療集団を国民のために活用することについて検討すべき」「准看護師養成制度について、廃止する方向で検討すべき」などの意見も出された。
 なお、この懇談会は年度末まで、更に教育内容等について議論を続ける予定。

防衛関係費、総額4年連続のマイナス
18年度予算 財務省原案
 平成18年度予算の財務省原案が12月20日の閣議に提出されるとともに各省庁に内示された。一般会計総額は、前年度当初予算比3%減の79兆6,860億円。一般会計の減額は4年ぶりで、8年ぶりに80兆円を下回った。
 防衛関係費は、前年度当初予算比0.9%減の4兆8,137億円(SAC0関係経費含む)で、4年連続のマイナス。主要項目の内示内訳は、▽弾道ミサイル攻撃への対応1,398億7,900万円(200億3,700万円増)▽ゲリラや特殊部隊の攻撃等への対応832億6,300万円(7億9,700万円減)▽周辺海域における潜水艦及び武装工作船への対応81億5,100万円(5億9,300万円増)▽大規模・特殊災害等への対応625億2,200万円(92億6,800万円減)▽我が国を含む国際社会の平和と安定のための取組71億900万円(32億9,400万円減)▽統合運用態勢の充実3億4,500万円(2億5,500万円増)▽より高度な情報通信態勢の構築1,961億6,500万円(153億2,800万円減)▽軍事科学技術の進展への対応1,659億2,200万円(95億3,000万円減)▽生活関連・勤務環境改善520億9,300万円(196億5,900万円減)▽処遇改善・就職援護680億5,100万円(4億9,900万円減)▽教育訓練の充実8,976億5,900万円(507億2,600万円増)▽衛生(医官施策の充実含む)293億400万円(113億6,100万円減)▽着実な防衛力整備(主要装備品等)7,309億7,500万円(168億8,100万円増)となっている。

「彰古館」で新史料多数発見!!
目露戦争当時の捕虜収容所記録写真など
 既に各種メディアで報じられているように、陸上自衛隊三宿駐屯地に所在する衛生学校(学校長・中川克也将補)の広報資料館「彰古館」で、100年前の習志野捕虜収容所の大量の未公開写真が確認された。現在、防衛ホームに「彰古館往来」が連載中であるが、日露戦争の終結から100年目に当たって関係史料の調査中に内容が確認されたものである。明治38年(1905)当時、72,408人のロシア人捕虜に対して、国内29箇所に捕虜収容所を設けてあった。中でも習志野捕虜収容所は、大阪の濱寺の22,376人に次ぐ14,950人を収容した広大な施設である、一般には松山捕虜収容所(2,163人を収監)での捕虜に対する厚遇が有名で関連史料も多く、多数の書籍も出版されている。しかし、習志野捕虜収容所の写真は、当時の新聞など印刷物や、個人蔵のものが僅かに確認される程度であった。
 今回の調査の対象の中に、かなり汚損したA4サイズの厚さ8センチにもなる一冊の写真帖があった。写真に添付された説明文を精査した結果、日露戦争時の習志野捕虜収容所の記録写真と確認されたものである。
 〈撮影者について〉撮影者の岡谷米三郎一等軍医(軍医大尉)は、口腔外科を専門とする軍医で、日露戦争当時は東京予備病院付兼士官学校教官であった。
 岡谷軍医は、戸山分院(現在の東京都新宿の国立国際医療センターの所在地に当たる)で口腔外科の治療中に、恩給診断関係の上申をする際、恩給の対象となる「口の開き具合の基準」が、全くないことに気付いた。そこで日本兵1,684名、習志野捕虜収容所のロシア兵2,212名の口腔調査を実施し、日本兵5.1センチ、ロシア兵4.6センチの平均値を算出したのである。彼はこの時「開口度付き開口計(口の開く角度を測るノギス)」を発案したが、ほかにも戦傷者のリハビリテーションや恩給診断用の器具を考案している。
 岡谷軍医は、この調査で習志野捕虜収容所を訪れた際に、彼らの生活風習を記録する必要性を痛感したと考えられる。
 〈習志野での撮影〉明治38年(1905)12月10日、カメラマンを伴った岡谷軍医は再び習志野捕虜収容所を訪れる。前回の口腔調査の折に知り合った捕虜のヤコーフ・ヲストロスキーが片言のドイツ語を交えて通訳をし、撮影の調整に当たった。撮影は各施設関係のほか、収容所内の日常生活など50枚に及んだ。大量のガラス乾板を戸山分院に持ち帰り、戸山分院のX線室の暗室で現像された。この時点で詳細な説明文を添付している。
 〈添付写真の内容〉カメラが珍しかった当時、よほど大きな節目でなければ写真を撮る機会は限られており、多くの写真撮影がされている松山捕虜収容所においても、そのほとんどは集合写真か、それに類するものであった。
 岡谷軍医は、医者としての立場から、民族の慣習の違いに興味をもった様で、捕虜生活という非日常生活の中で、敢えて洗面、入浴、散髪、食事、洗濯、裁縫、散歩といった捕虜の日常生活を撮影していることが特徴である。スナップ写真を撮る慣習が無かった当時としては、貴重な風俗写真と言える。更に詳細な説明文が、写真の価値をより一層高いものにしている。
 日露戦争は、ジュネーブ条約のハーグ法規(1899)の施行後、初めての国家間の戦争という背景もあり、どの場面にも各国の武官・記者の目があった。捕虜に対して最大級の優遇措置をとっていたことが、この写真帖によって証明されたといえよう。
 〈新たな時代への継承〉この写真帖の内容を精査する過程で一番困難だったのが、撮影者の特定であった。添付された説明文の解析、写真帖に捺印された印鑑、自身のポートレート、陸軍軍医学会誌の口腔調査の記録、日露戦争時の上長官定年者名簿などによって、やっと撮影者が確定した。岡谷軍医自身は、日本の医療史の中では一介の軍医にしか過ぎない。後に軍医総監になるような有名人でもなく、恐らくは歴史の狭間に埋もれてしまった人物であろう。日露戦争という国家存亡の危機に際して、華々しい最前線で勤務することは適わなかった一人の口腔外科医ではあるが、彼は職務上、考えられる最大限の仕事をしたのである。この写真帖が彰古館に伝えられたことにより、100年後の今、その業績が再評価されることとなった。
 100年の封印を解かれた写真帖は、原本の養生、中性紙化、電子ファイル化などを経て、更に100年先に引き継ぐ準備が進められている。

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