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   2005年12月15日号
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<彰古館 往来>
陸自三宿駐屯地・衛生学校
〈シリーズ47〉
日露戦争の記録(3)
 貴重な日露戦争時の口腔外科の記録写真集を残した岡谷米三郎一等軍医ですが、実はもう1冊、同じ体裁のアルバムが彰古館に現存していました。
 日露戦争では、各国の見学武官が最前線から後方の捕虜収容所に至るまで研修に来ていました。国際的に弱者であった当時の日本は、世界の信用を勝ち取るためにジュネーブ条約の遵守に大変な努力を傾けます。
 特に捕虜の取扱に関しては「捕虜は決して罪人ではない。母国の名誉のために戦った勇敢な兵士が、戦いに敗れて兜を脱いだのである」と小学校に至るまで訓令を発し、その扱いは捕虜と言うより、ある意味では来賓に近いものでした。
 当時、松山以下全国29箇所の捕虜収容所がありましたが、民間人からの慰問、本国からの給料の送付、日本兵よりも高額な給食、外出、湯治、将校は従卒が付き本国から家族を呼び寄せて同棲、完全な衛生管理から傷病者の死亡率が極めて低い、など手厚く扱われていた事が分かります。
 今回内容が精査された岡谷軍医のもう一冊のアルバムは14,950人の捕虜を収容した習志野捕虜収容所の記録写真集でした。有名な松山捕虜収容所に比べ、習志野の捕虜収容所に関しては、僅かに習志野市史編纂委員会が30年ほど前に当時の地元新聞記事などを調査した小冊子が一部関係者に配布されただけで、殆ど記録が残されていません。
 これを読むと、捕虜収容所の開設、捕虜の収監、捕虜達の生活、一般市民との交流、捕虜の送還、跡地の陸軍騎兵学校への変貌などが良く分かります。惜しむべくは、後で寄贈されたものや当時の印刷物を除き、写真が殆どありません。
 岡谷軍医は習志野捕虜収容所で2,212名の口腔調査を実施し、彼らの生活風習を記録する必要性を痛感したようです。ポーツマス条約が締結され、捕虜が送還され始めた明治38年(1905)12月10日、カメラマンを伴った岡谷軍医は、捕虜収容所の正門、施設全体、第一区から第三区、ロシア人、ポーランド人、タタール人、ユダヤ人、洗面、散髪、入浴、調理場、手製の玉突き、スマートボール、花札、トランプ、千葉県警の慰問、演奏場、学校、礼拝堂、居室、医務室、診察風景、歯科治療風景、近隣の民間施設など約50枚の写真を撮影し、詳細な説明文を添付しました。
 奇しくも彰古館で、このアルバムの挨が払われたのがポーツマス条約締結からちょうど100年目の9月5日です。後でこれを知った関係者は、その偶然の一致に驚きました。
 「祖国を遠く離れた彼らの涙を禁じえない」と岡谷軍医は書き残しています。笑顔で写真に納まるロシア兵たち。当地で亡くなられたのは僅かに34名ですが、本国に送還された捕虜達も、帰国直後にロシア革命という嵐に遭うことになるのです。帰国後の彼らの幸せを祈らずにはいられません。
 岡谷軍医が残した写真は、単に興味本位で撮影されたロシア人捕虜の写真などではありません。100年前の日露双方の歴史の一部を切り取った、民族の貴重な記録なのです。

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