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   2005年10月15日号
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ラッフルズ・プログラムに参加して
官房秘書課長 鎌田昭良
 本年、8月16日から20日の間、シンガポール政府の外国政府関係者招聘事業であるラッフルズ・プログラム(因みにラッフルズとは今のシンガポールにあたる地域の植民地経営に着手したイギリス人の名前です)に他省庁の審議官や課長4名の方とともに参加し、シンガポールという国を見聞する機会を頂きました。要人などとの意見交換、施設研修などと盛り沢山の研修プログラムの中で、シンガポールは日本とはかなり国情の異なる国であることを発見しました。少しでもシンガポールという国の紹介に役立てばという想いから、あくまでも私の個人的な感想でありますが、以下、ラッフルズ・プログラムで見聞したシンガポールについての私なりの所見をまとめてみました。
ジョージ・ヨー外務大臣への表敬
強い危機意識の存在
 今回のシンガポールでの研修に先立ち、少しだけシンガポールについて事前に勉強をしました。(1)人口420万(永住者を含む)、面積約700平方キロと言う小国であるにも係わらず相対的に見てかなりの軍事大国であること、(2)独立以来、与党が政権を独占(これまで、野党議席が1割に達したことはなく、現在も、議会の84議席中82議席を与党が確保)している状況にあることに加えて国民に対する政治的な制約が大きいこと、(3)独立以来25年間、首相の職にあったリー・クワンユー氏の子息のリー・シェンロン氏が現在の首相であることなどを知りました。これだけの事実を見ても、この国が南国特有ののびのびしたイメージとは異なる面があることにすぐに気がつきます。1人当たりの国民所得が我が国の6割の水準であり、国際的な産業競争力も我が国を抜くとも言われているシンガポールという国が何故そうした体制を採っているのか。この点が今回の出張における私自身の大きな問題意識でした。
 結論から言えば、シンガポールにはー少なくともこの国のリーダー達にはー国家存続についての「強い危機意識」が存在するということです。このような危機意識が背景となって、国防について言えば、いわゆる「トータル防衛」と言われる政策の中で、徴兵制や民間防衛の導入など一般国民を巻き込んだ強力な国防体制を構築するとともに、政治的にもある種の統制が行われています。
 こうした強い危機意識を作り出しているものは何なのでしょうか。それはこの国が抱える各種の脆弱性や不安定性だと思います。いくつかの要因を列挙すれば、第一にシンガポールは戦略的な縦深性のない(東西約42キロ、南北約23キロ、面積は東京都23区とほぼ等しい700平方キロ)小国であることです。第二の要因として隣国であるマレーシアやインドネシアと歴史的、民族的、宗教的に言って難しい関係を有していることです。数年前、インドネシアのハビビ大統領(当時)から、地図上の「この赤い点」と侮蔑されたこともあるそうです。またマレー民族優遇政策を掲げるマレーシアとの間では水資源問題を含めた難しい問題が存在します。私が意見交換した学者の一人は、仮にマレーシアからの水供給が止められる事態になれば、シンガポールはマレーシアに攻め込むしか選択はないと述べていました。第三の不安定性はシンガポールが多民族国家であることです。人口の76%は中国系(華人)ですが、マレー系住民が14%、インド系住民が8%の人口構成です。我々が意見交換したシンガポール要人の1人はシンガポール人とは何者なのかと問われても、明確な回答が無いという意味で、「シンガポールにはアイデンティティが欠けている」とも述べていました。またシンガポール人は、基本的には、民族毎にそれぞれ異なる宗教を信奉し、宗教的にも複雑な国家です。シンガポールに敵対する国家から、こうした民族的、宗教的な多様性につけ込まれるおそれがないわけではありませんので、常にシンガポール政府は「国家の統合」と言う点に最大限の意を払わざるを得ない状況にあります。このため、例えば、米国との安全保障面での関係といった国の根幹に係わる政策についても国の統合という観点から慎重な判断が求められており、ASEAN諸国の中で米国との密接な関係を有するにもかかわらず、正式な米国との同盟には踏み出すことはしません。第四にシンガポールは歴史も浅く、過去のイギリスの植民地政策の過程でできたある種の人為的な都市国家である点もシンガポールが抱える不安定性の一つでしょう。あるシンガポール政府の高官は、意見交換の中で「イギリスの植民地支配がなければ今のシンガポールは存在せず、今頃はおそらく中国人が多く住む単なる漁村にすぎなかったであろう。日本や中国の存在しない世界は想像できないが、シンガポールの存在しない世界は想像しうる」と述べていましたが、この発言はシンガポールの抱える問題点を凝縮しているように私には聞こえました。
 以上のようなシンガポールが抱える脆弱性や不安定性がこの国の国民にある種の危機意識を持たせる要因になっているようです。400万強の人口に過ぎない国であるにも関わらず、人口の1%以上の5万人におよぶ陸軍常備兵力を有している(仮に日本で1%の陸上兵力ということになれば、現在15万弱の陸上自衛隊の人員は120万を抱えることになります)とともに、18歳以上の男子に2年の兵役を課しています。さらには、国が指導する市民防衛や社会防衛体制に対し国民の幅広い支持が存在します。シンガポールには各コミュニティーに日本で言えば、「公民館」に類似した「コミュニティー・センター」と称される組織が広範に設置されています。シンガポールでは、1965年の独立以来、政府が国民に高層公団住宅を提供しており、現在は85%の国民がこうした住宅に住んでいると言われていますが、政府は、民族、出身地、宗教の別に関係なく国民をこの高層住宅に入居させています。これにより、各民族や宗教の混じり合いを推進しているわけですが、これに加えて、上記のコミュニティー・センターにおいて、季節毎に住民参加の様々な行事やイベントが開催されることにより、コミュニティー・センターは多民族国家シンガポールにおける各民族・各宗教交流の中核になっています。したがって、シンガポールのコミュニティー・センターは日本の公民館以上に重要な役割があるわけです。実際、このコミュニティー・センターという組織には、単に地域住民にスポーツや趣味、娯楽といったサービスを提供するのみならず、地区住民の希望や苦情を政府に伝えるとともに、逆に政府の政策や事業を住民に伝えるといった政府と住民を直接結びつける機能も有しているわけです。普段、日本で地域活動に参加していない私のようなものぐさな日本人から見ると、こうしたコミュニティー・センターの活動は国家によるある種の押し付けに見えないわけでもありませんが、シンガポール国民はそうした上からの「統制」を基本的には受け入れているように見えます。こうしたこと全ての背景にはシンガポールが有する危機意識を国民が一様に共有していることがあるようです。

シンガポールの強み:危機意識をばねに
 シンガポールという国の強みはこうした危機意識を国家発展のばねにしていることです。小国で他に資源もないことから、国家ぐるみで人材の育成に真剣に取り組んでいます。厳しい受験競争と選別の弊害もあるようですが、小学校4年生から全国テストを実施するなど厳格な教育制度を採っていますし、全生徒のComputer Literacyの向上に国を挙げて取り組むなど科学技術立国を目指す強い意気込みも感じられます。また、シンガポール政府の要職に就いているほとんど全てのリーダーは国家の奨学金制度により欧米の大学や大学院などに留学しており、極めて高い知性や国際性を身につけていることを実際の意見交換を通して感じました。シンガポールで成功するためには、教育を受けているかどうかが全てであり、少数民族であるマレー系やインド系の住民グループが貧しい家庭の子女の教育を援助するため、「MENDAKI」、「SINDA」と言った慈善団体を作って政府の支援を受けて活発に活動しているのも印象的でした。世界的にシンガポールの産業面での競争力が常にトップに位置づけられていることは、最近では周知の事実ですが、こうしたことの背後には、教育に対する取り組みを含め、国民の非常な勤勉さがあるように見受けられます。そうした国民のエートスは国民が共有する危機意識の裏返しではないでしょうか。なお、シンガポールには失業保険など国家が直接、国民を救済する制度はないようですので、国民は勤勉にならざるを得ない事情もあるようです。
 こうして見ると、シンガポールという国はこの国が抱える本来的な「弱さ」を逆に「強さ」に転じている驚異的な国であることに気がつきます。シンガポールの脆弱性の一つとして前に多民族国家であることを挙げましたが、人材の育成と言う観点からは、多民族国家ということも有利に働いているように見えます。我々が見学した新民中学という学校では、英語による共通の教育に加えてMother Tongue(母国語)の教育も行っており、シンガポールでは基礎的な教育を受けた生徒は英語と母国語(中国語、マレー語、ヒンズー語など)の最低2ヶ国語が話せるようです。シンガポールがさらに国際競争力を維持し続けようとすれば、国際的に活躍できる人材の育成が不可欠ですが、国民ほとんどが複数の言語が駆使できることはそういう意味でも強みではないでしょうか。
シンガポール北部Sembawang選挙区のコミュニティー・センターでパソコン教室を視察
国家の人材育成における軍の役割
 注目すべきは、こうした国家の人材養成において、軍が大きな役割を果たしていることです。国家の安全保障の観点から、先ずは優秀な人材を軍が確保し、軍内部や軍の奨学制度による内外の大学等での教育で、軍自身が人材を養成する。さらに軍が育て上げた人材をこんどは軍が社会に還元する。我々が意見交換した外務大臣、貿易産業大臣、あるいはいくつかの省庁の事務次官のほとんどが徴兵制での軍勤務を有していることはもちろんのこと一定期間、職業軍人として軍に勤務した経歴を有していました。因みに我々が意見交換したジョージ・ヨー外務大臣は、シンガポール軍の准将として統合作戦計画部長のポストにあった方でした。なお、育成した人材を社会に還元する観点から軍人の定年年齢を意図的に低く設定しているため、軍では若くて有能な人材が積極的に登用されており、軍の絶対的規模が相対的に小さいことから各軍トップの階級も抑えられていることを割り引く必要はありますが、シンガポール軍のトップであるシンガポール軍司令官は、43歳という若さです。

将来の課題
 このようにシンガポールでは危機意識をばねにして、国家の発展を行おうとしています。こうした戦略はこれまでのところ成功しており、シンガポールはASEAN諸国の中でもトップの経済的な繁栄を謳歌しています。経済成長にともなって、シンガポール国民も確実に裕福な生活を享受しているようです。国が経済成長した過程で最初に目撃される事柄は女性が美しくなることだそうですが、正にシンガポールでは女性が美しく街中を闊歩しています。おそらくリー・クワンユー元首相が1965年の独立当初に目指した理想の相当部分は実現されたのではないでしょうか。
 しかしながら、こうした経済的・物質的な繁栄の半面、将来に全く懸念がないかと言えば、必ずしもそうではないような気もします。当然のことながら、インドや中国などの他のアジア諸国の追い上げの中で、どうやって引き続き産業面での国際競争力を維持し続けるかという問題は常に問われなければなりませんが、より根源的な問題はシンガポールが既に手に入れつつある経済的な繁栄そのものの中にあるように思います。シンガポールのような多民族、多宗教の国家で経済成長を目指そうとすれば、その前提となる「国家の統合」と「政治的な安定」を達成するために、政府によるある一定の統制が必要になります。また、小国であり、地理的にコントロールしやすいだけにそうした統制を行うことも可能でしょう。しかしながら、経済発展して、国民が物質的な豊かさを享受すればするほど、今度はそうした政治的な統制を国民が受け入れることができにくくなり、より自由で民主的な社会にどのように成熟していくのかということが次の課題になるのではないでしょうか。
 中国の最高実力者であったト小平氏が健在の頃、共産主義国中国において市場経済を導入して経済発展を目指すとの方針を立てるに際し、政治的な統制と経済的な発展が両立し得るモデルとしてシンガポールを学習すべきであると述べたそうです。ト小平氏の指示の直後から、中国の要人のシンガポール視察が急増したとのことですが、いずれにしても経済的な発展と政治的な統制がどこまで両立し得るのかという命題については、シンガポールにおいても未だ解答が得られていないように思います。

「イルカ」のようでなければならない国
 シンガポールのある学識経験者と意見交換していた折、シンガポールが生き延びていくためには、「イルカ(Dolphin)」のようでなければならないと述べていました。大国に飲み込まれないように小国が生き延びていくためには、常にアンテナを張って、利口にかつ機敏に立ち回らなければならないということを述べているのだと思います。また、シンガポール政府高官の一人と日本の国連常任理事国入り問題を議論した際に、この高官は、日本の常任理事国入りを支持するとしながら「シンガポールはその国益がかかる問題を国連のようなマルチの枠組みに委ねることは絶対にしない」と断言していました。この言葉を聞いて、私自身、国の存亡を担うことの真剣さとはこういうことなのかと冷水を浴びせられた気分になりました。幕末から明治初頭の我が国にもこの国と似たような国家存亡についての真剣な議論があったように思いますが、今の日本にはこうした危機意識は見当たらないのではないかと感じました。
 米国、中国、ロシアと言った大国との関係を考えることも重要ですが、我が国は、シンガポールのような国家存亡について強い危機意識を有する国との信頼関係を強めることも極めて重要なのではないかと強く感じました。
 以上、私がラッフルズ・プログラムに参加して感じた所感の一部を書かせて頂きました。最後に今回のような貴重な経験を与えてくれたシンガポール政府に感謝させて頂き、私の報告を終えることとします。

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