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   2005年6月15日号
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日本海海戦100周年
平和と友好誓う
記念艦「三笠」前で式典開催
 日本海海戦100周年に当たる今年、記念式典、洋上追悼行事、慰霊献茶式、講演・演奏会、三笠展、遺墨展、柔道大会などの記念行事が全国各地で順次開催されている。これは、国家存亡の危機を克服した明治の先人に学び、日本人としての誇りと自信を回復し、併せて日露両国の相互理解と友好を促進することを目的に行われているもので、「日本海海戦100周年記念大会」(会長・増田信行三菱重工業椛樺k役)が主催している。
 記念式典は5月27日、横須賀市の記念艦「三笠」前広場で開催され、日本、ロシアをはじめ英国、米国などの各国関係者多数が出席した。午前10時半、開式の辞に続いて日本、ロシアの両国国歌が吹奏されたあと、日露戦没者に対する黙祷が行われた。次いで、増田会長が式辞に立ち、日露戦争が起きた当時の世界情勢を振り返りながら「今年、連合艦隊と戦ったロシア・バルチック艦隊の母港であるサンクトペテルブルクに海自練習艦隊が親善訪問するなど、現在は相互理解と友好が深まっている」ことを強調、両国の一層の協力・発展を誓った。中曽根康弘元首相、大野功統防衛庁長官代理の北村誠吾政務官、ロシア公使、英・米国防武官が追悼と国際社会の現状に関する挨拶を順次述べたあと、アルゼンチン、ドイツ、フランス、韓国、トルコの各国大使・武官、玉澤徳一郎、中谷元両元防衛庁長官、齋藤隆海幕長、東郷平八郎元帥の親族をはじめ来賓が各々紹介された。引き続き、小泉純一郎首相、石原慎太郎都知事等からの祝電披露、記念論文表彰が行われ、式典を終了した。
 翌28日には、佐世保地方隊の「ひえい」「きりさめ」「あさゆき」の3艦が協力・支援し、連合艦隊とロシア・バルチック艦隊が戦った対馬沖近くの海域で体験航海を兼ねた洋上追悼式も行われた。

常勝 健軍Aが7連覇(組手団体)
全自空手道大会
羽祢田選手、V5達成(組手個人)
 第44回全自衛隊空手道選手権大会が6月4日、日本武道館(東京都千代田区北ノ丸公園)で行われ、北は北海道から南は沖縄までの全自空手界の精鋭多数が参加、全試合とも迫力ある熱戦を繰り広げた。特に今大会は、参加チームがこれまでの31チームから41チームに大幅にアップし、また、防大から2チームが初めて参加した。
 午前9時、池田整治大会委員長の挨拶や西和孝審判長と片山幸太郎安全委員長から試合上の注意などが行われたあと、形試合団体戦、形試合男・女個人戦、組手試合男・女個人戦の各予選の幕が切って落とされた。
 昼食休憩をはさんで式典が始まり離、池田委員長の開会宣言に続いて壇上に上がった音楽隊のWACとともに全員で国歌を斉唱した。公務のため欠席した全自空手道連盟会長の守屋武昌事務次官にかわって西川徹矢人事教育局長が会長挨拶を代読、「空手道は国家防衛に通ずる武道であり、一層の人格陶冶、心身の精進を」と要望した。引き続き、来賓祝辞、来賓紹介、祝電披露、功労者等表彰、優勝杯返還、選手宣誓などが順次行われた。
 午後1時半、各試合の準決勝、決勝戦が始まり、会場の声援も一段と大きくなった。特に、初参加の防大チームに対するエールが際立っていた。各試合とも、日頃の鍛錬の成果を存分に発揮しようと、出場選手は手に汗握る好勝負を展開した結果、組手団体戦は決勝戦で入間Aとの激闘を制した健軍Aが7連覇を達成、組手男子個人戦は羽祢田選手が圧倒的強さで5度目のV、組手女子個人戦は小金丸選手が初優勝。また、形団体戦は富士学校が7度目のV、形男・女個人戦は平野選手が初優勝、森本選手が2連覇を達成した。

 大会成績は次のとおり。
 〈組手試合団体戦〉▽優勝=健軍A▽準優勝=入間A▽第3位=健軍B、鹿屋▽敢闘賞=浜松A、習志野、北熊本A、下総
 〈組手試合男子個人戦〉▽優勝=羽祢田啓(健軍)▽準優勝=樋上崇(朝霞)▽第3位=岡本健(勝田)、開沼研人(入間)▽敢闘賞=谷口丈司(浜松)、浦上直人(富士学校)、丹野宣徳(武山)、酒匂直也(入間)
 〈組手試合女子個人戦〉▽優勝=小金丸亜希子(健軍)▽準優勝=中山眞由美(入間)▽第3位=三上麗瑞(千歳)、森本晃代(健軍)
 〈形試合団体戦〉▽優勝=富土学校▽準優勝=小牧▽第3位=霞ヶ浦、少工校▽敢闘賞=三沢、久里浜、竹松、浜松
 〈形試合男子個人戦〉▽優勝=平野政幸(佐世保)▽準優勝=南福太郎(防大)▽第3位=丹野宣徳(武山)、坊上栄哲(佐世保)▽敢闘賞=小関義孝(勝田)、浦上直人(富士学校)、仲市行宏(同)、山口雄一郎(海自大村)
 〈形試合女子個人戦〉▽優勝=森本晃代(健軍)▽準優勝=信国郁子(北熊本)▽第3位=松本美香(練馬)、小金丸亜希子(健軍)
 全自空手道に対する永年の功績により次の9個人、1団体が表彰された(=敬称略)。
 〈功労者〉▽奥松勉(小平)▽佐田重夫(0B)▽西村仁(百里)▽板垣了(札幌)▽矢萩哲也(下総)▽渡部比左王(富士)▽早田俊之(大村)
 〈役員〉伊藤正彦(秋田)
 〈選手〉田名邊明治(小牧)
 〈団体〉弓浜

警察学校生が秋田駐屯地を見学体験
 秋田駐屯地(司令・高木新二1陸佐)は5月24日(39名)、26日(32名)の2回に分けて秋田県警察学校(今年新規採用学生)の部隊見学に協力した。
 駐屯地に到着した学生達は、最初に広報室長(金田2尉)からの駐屯地の概要説明を受けた後、新隊員の訓練を見学した。5月下旬とは思えないくらい肌寒い気候の中、学生達は新隊員の訓練を真剣に見入っていた。施設の見学後に、第3次イラク復興支援時の講話とビデオにより、厳しい環境の中行われた活動内容について説明を受けた。
 話を聞いた学生は「これまでの認識と違い、実際の現地での活動内容を聞き大変参考になりました」と感謝の言葉があった。

<彰古館 往来>
陸自三宿駐屯地・衛生学校
〈シリーズ41〉
彰古館所蔵の医学書
 彰古館の所蔵する医学書は、陸海軍関係のものばかりではありません。明治初年以降のオランダ、ドイツ、フランス、イギリス、ロシア、アメリカなどの専門書が数多く残されています。残念ながら、その内容については、古い外国語であること、辞書にものっていないような医学専門用語であること、各国の軍隊が纒めた医学書という特殊な分野であることなどから、現代の医学者の興味の対象から外れており、その価値は正当に認知されていませんでした。書棚の相当量を占有している古書は、いつ破棄処分されてもおかしくない状況だったのです。
 ところが近年、日本医史学会常任理事である順天堂大学医学部医史学科客員教授の酒井シヅ氏によって「これだけの軍陣医学の蔵書が揃っているのは彰古館以外ありません」とのお言葉を頂き、ゆっくりですが再調査が始まっています。
 もちろん外国文献だけではなく、江戸後期の国内の医学書も陸軍軍医学校によって収集されていました。名前の知れた有名な医学書は戦後の混乱期に散逸していますが、それでも「傷寒論」「医範提綱」といった貴重な和書が良好な状態で現存しております。ほかにも「全體新論」の様に稚拙ながら多くの図版を使用して人体の構造を詳解した解剖学の入門書もあります。これを見ると人間の内臓、骨格、血管、神経、脳などの概念は、江戸末期にはすでに一般にまで浸透していたことが理解できます。
 明治維新直前に発行された海外の文献を翻訳したものでは、慶応4年(1868=明治元年)出版の、オランダ海軍の海軍士官必携から外科術の部を翻訳・加筆した「海軍必携」士官心得・外療一斑などがあります。
 明治維新後の医学書ではドイツの軍医総監エスマルクの著書を翻訳した石黒忠直軍医監の「軍陣外科手術学」、ザイデル一等軍医著書を翻訳した足立寛軍医監の「柴氏軍陣外科学」などがあります。これらは、いわゆる銃創などの戦傷病を含む軍陣医学の専門書です。
 洋書の調査過程では、明治初年以降の貴重な文献史料も発見されています。
 世界で最も早い時期に野戦にX線装置を持ち込んだアメリカ・スペイン戦争時(1898)のメディカル・レポートは、当時の米陸軍から日本の陸軍省に贈呈されたものでした。石版刷りのX線写真は、陸軍軍医学校の臨床用1号機と同年に撮影されたものであり、印刷物ではありますが、野戦で撮影されたX線写真の現存品としては世界で最も古い年代のものです。
 ほかにも、日露戦争で軍医学校X線1号機を野戦で運用した際の貴重な写真と記事が記載されているフランスのレポートや、ドイツが第一次世界大戦時に作成した「飛翔する弾丸の衝撃波」を捕らえたストロボ写真を含む貴重な弾丸の貫徹力のレポートなど、時代と兵器の変貌による軍陣医学の変遷が窺い知れる史料が多数残されています。
 これら彰古館が所蔵する多数の医学書は、研究者によって活用される日をじっと待っているのです。

〈訂正とお詫び〉5月15日号(第667号)の「防衛庁・自衛隊高級幹部等名簿」の中に誤りがありましたので訂正するとともに関係者の方々にお詫び致します。正しくは次のとおりです。
 ▽防研統括研究官・近藤重克教官▽陸幕調査課企画班・大庭秀昭1佐▽陸自春日井駐業隊長・戎井正明2佐▽海自31空群標的機整備隊司令・田村勝2佐▽空自開実集団司令部主任研究官・早川昌二技官

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