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   2005年4月15日号
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災害派遣 <寄せ書き>
<新潟地連>
新潟県中越地震
新潟地連 陸曹長 本間 友明
 昨年10月23日土曜日夕方、震度7の地震が新潟県の中越地区を襲った。この中越地区は新潟地連(部長・中野陽一郎1陸佐)長岡出張所(所長・阿部晴之3陸佐)の担当地域で特に小千谷市、川口町、山古志村は大きな被害を受けた。
 震度6以上の揺れが何と40分の間に3回という凄まじいものであった。
 その日は休日だった為、地震発生後、所員は連絡を取り合おうとしたが電話回線がパンク状態になり、思うように連絡の取れないままそれぞれ事務所に登庁、2名の所員は道路が寸断され事務所にたどり着くことも出来なかったが全員無事であった。
 事務所については壁にひびが入っていたものの幸い大事にはいたらず、電話・電気が使え、事務所としての機能を果たせる状態だった。余震の続く中、阿部処長はできるだけの情報を収集し、災害派遣部隊となる部隊及び地震対策本部との連携をとった。
 所員はなかなか通じない電話で協力者及び今年の入隊者・受験者の家族の安否確認に勤めた。
 翌日、明るくなってより被害の大きさ、地震の怖さを実感した。倒壊家屋・土砂崩れ・新幹線の脱線、どれをとっても今回の地震の大きさ、怖さを物語っている。強い余震が有るため家に戻れない被災者が10万人を越えた。
 各道路もあちこちで寸断され広報官は担当地域に行くこともできない状態であった。
 一日も早く中越地区が復興することをお祈りしております。

<神町>
災害派遣に参加して
20普連3中隊 3陸曹 片桐 豊
 昨年の10月24日の夜に、中隊から「災害派遣命令がかかりました」との連絡を受け、急いで自宅を出て中隊に到着して、直ぐに準備を行い25日深夜に新潟に向い出発しました。
 一度、新発田駐屯地に立ち寄り、支援場所である新潟スタジアムに到着しました。我々は、第6師団の給食支援隊ということで、被害者の人達の食事を作るという事が任務でした。当初は、到着して直ぐに食事を作っている一方で、宿営の準備を行い疲労もたまりましたが、3日目辺りに副連隊長の激励と連隊からの差し入れで、本当に有り難いと思いました。4日目辺りからは、大分落ち着いてきて11月1日に帰隊しました。
 自分は、今回初めて災害派遣に行きましたが、貴重な体験をしたと思います。これからも、今回の事を忘れず訓練に励みたいと思います。
災害派遣に参加して
20普連重迫中隊 陸士長 真坂 靖長
 給食支援隊で新潟中越地震に災害派遣されました。仕事の内容は、演習炊事班と同じような感じで、飯炊きやボイルといった炊き出し支援をメインでやってきました。それに追加して輸送支援もありました。
 自分がいた班では、前半の方は、炊き出し支援をやっていましたが、後半の方は、ばっかん(調理した物を入れるクーラーボックスの様なもの)洗いや、本部の支援をメインにやっていました。支援の状況は常に変化していて、二転三転する事も多々ありました。
 被災地へは行けませんでしたが、微力ではあっても力になれた1週間でした。

「頑張っています」 新しい職場
活躍するOB シリーズ
(株)航空保安協会  渥美 建志
渥美氏は平成16年、東京業務隊を3海佐で定年退職。現在、中部国際空港「セントレア」で勤務している
 私は、昨年11月、海上自衛隊東京業務隊で定年になりました。
 以前から、担当の補給本部就職援護室に、定年後の再就職は自宅のある浜松方面でとお願いしておりましたところ、夏頃になって、(財)航空保安協会を紹介して頂きました。仕事の内容は、民間空港の航空機事故等の緊急事態発生時に対応する消防、救急医療搬送等の業務です。幸いにも、自衛隊在職時の職種が「地上救難」であったため、その経験が大いに役立つことになりました。
 就職場所は愛知県常滑市、浜松とはかなり距離があり、通勤は無理なので、単身赴任することにしました。これには随分と迷いもありましたが、自衛隊在職中にも単身赴任を長く経験していましたし、それよりは、自分の力を発揮できる仕事を優先することにいたしました。当初は、名古屋空港で勤務しながら研修等を重ね、今年2月からは、愛知県常滑市に開港した中部国際空港「セントレア」で勤務しています。セントレアは移転作業がTV等でも大きく取り上げられ、皆様もよくご存知のこととは思いますが、温泉等のリゾート施設やアウトレット機能も兼ね備えた新世代の空港として、飛行機利用客以外にも極めて多くの集客が期待され、実際、開港後は連日、足の踏み場もないほどの混雑振りです。更になんと言っても「愛知万博」を控え、国際空港として、保安警備・救急体制の一層の強化が求められています。
 在職中の職種経験が役立っているとはいえ、本空港の化学消防車は40トンと大きく、取り扱いにはまだまだ技量が追いつかず、経験を積まなければなりませんが、職場の先輩や担当職員の懇切丁寧な指導の下、現在、奮闘努力している最中です。もちろん、空港消防業務は体力勝負の仕事ですので、健康の維持管理に十分気をつけており、機会をとらえて筋力トレーニング、ジョギング等を実施しております。
 現役の皆様も、生活習慣病などは早いうちに直し、常に健康管理に心掛けることをお勧めします。
 また、再就職してみて改めて実感したことですが、仕事をうまくやっていく上で、人間関係は非常に重要なファクターです。一般社会の仕事では、良い人間関係や良い職場環境は、自衛隊のように当たり前のことではなく、自分から積極的につくっていく努力をすることが大切だと思います。今私は、初心に帰って自分を見つめ直し、謙虚な気持ちで日々仕事に励んでいます。
 中部国際空港「セントレア」にお出かけの際は、是非、気軽にお声をかけて下さい。
 皆様の今後の健闘をお祈りいたします。

<大阪地連>
公募予備自から海幹候へ
予備1陸士 大阪府 浅田 崇照
 私は平成14年7月、予備自衛官補に採用され、昨年の9月予備自衛官に任用されました。普段は大学生なのですが、この予備自衛官の訓練を通じ、大学では得られない経験により自分自身が成長する機会を得て、人生の大きな転機を迎えることができました。
 予備自衛官補の教育訓練は大学の夏期休暇を利用し出頭したのですが、新隊員前期教育に準じた内容の教育に区隊長、区隊付、班長は熱心にあたってくれました。特に、区隊長は厳しさと優しさをもって指導し、私達の団結の強化に尽力して下さり感謝しています。区隊長は、私の尊敬する人で、自分にとっての目標になりました。このような素晴しい人達に出会えたことは非常に幸運でした。思えばきついこともありました、が、教育隊の生活は楽しいものでした。
 予備自衛官に任用されて初めての招集訓練に参加する時、実は不安に思っていることがありました。それは私が大阪で初の公募予備自衛官であり、どのように見られるのか全く見当がつかなかったからです。「もしかして邪魔にされるのでは?」などと考えつつ駐屯地へ出頭しました。しかし、これは全く杞憂に終わり、皆さんはごく自然に接してくれました。中には公募予備自衛官制度は、予備自衛官にとって活性剤になると言ってくださる人もいて、非常に嬉しく思いました。ただ、やはり私達は経験が少ないので常に練度を高める努力をしなければならないとも感じました。
 大学においては、知り合った人に「自分は予備自衛官である」と言うようにしています。国民に自衛隊を身近に感じてもらうことが大事だと思いますし、こういった地道な活動が防衛基盤育成につながると思っています。幸い、みんな興味をもって接してくれますし、中には実際に受験した人もいます。国民の自衛隊への理解と関心が高まっていると肌で実感でき嬉しい限りです。
 残念ながら私は、今回の5日間訓練を最後に予備自衛官を退職し、3月から、海上自衛隊幹部候補生学校に入校しますが、現職になっても今までに得た経験は生きてくると思います。自分としては、予備自衛官の訓練で出会った人達に対して恥ずかしくないよう、これからも努力していきたいと考えています。

<滋賀地連>
父に憧れ入隊決意
陸・2士入隊予定者 彦根市 平綱 一樹
 僕が自衛隊に入ろうと思ったのは、父に憧れたからです。なぜ憧れたのかと言うと、父は元自衛官で今でも予備自衛官として夏に訓練に参加しているから。そして阪神淡路大震災などの災害で、困っている多くの人々を助ける自衛隊の活躍をテレビで見て、自衛隊に入ろうと思いました。
 海外での活動では、自衛隊のイラク復興支援について、与党と野党の対立が見られましたが、戦闘や空爆で傷ついた人たちのために自衛隊が復興支援活動で派遣されることは、これからの国際社会にとってとても大切なことだと思います。日本は平和主義の国ですが、有事の時には自衛隊が出動することになると思います。そのような事がないのが理想ですが、備えは必要だと思います。僕は困った人たちを助けるために、自衛隊でいろいろなことを学びたいと思っています。

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