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   2004年11月15日号
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自殺予防 Q&A
〈第8回〉
防衛医学研究センター 高橋祥友
アルコール依存症(放置すると短命)
 Q:酒は人間関係の潤滑剤。酒を飲んで憂さを晴らすことは考えるが、自殺とは無関係ではないか?
 A:長寿者のライフスタイルを見ると、一合程度の晩酌を欠かさないといった人は珍しくない。この程度ならば、たしかに酒は百薬の長である。
 ただし、アルコール依存症の診断に該当するようになると、話は別だ。実際にはアルコール依存症であるのに、本人がそれに気づいていない場合も少なくない。全国で約200万人のアルコール依存症患者が存在する。
 アルコール依存症患者の平均寿命は52歳という報告もあり、一般の平均寿命よりも約30年も短い。アルコール依存症患者では、病死、事故死、自殺の率が、健康人よりもはるかに高いのだ。
 WHO(世界保健機関)の調査によると、自殺者の90パーセント以上が、最後の行動に及ぶ前に精神科診断に該当していた。その中でも、うつ病とアルコール依存症が両横綱で、このふたつだけで全体の約半数を占める。
 また、うつ病とアルコール依存症は双子のような関係がある。うつ病にかかった人が、何とか気分を晴らそうとするあまり、飲酒量が増えてしまうことがある。また、アルコール依存症のためにさまざまな問題を抱えた結果、うつ病になってしまう人もいる。
 一言で言えば、アルコール依存症は、身体、精神、対人関係にさまざまな問題を引き起こす深刻な病気である。WHOはアルコールを世界で最も乱用されている薬物として、警鐘を鳴らしている。
 次の3つが揃ったらアルコール依存症を、1つでもあればその可能性がある。
 *飲酒をうまくコントロールできない。(例:今日は飲まないでおこうと思っても、飲んでしまう。一杯だけのつもりが、酔いつぶれるまで飲んでしまう。)
 *飲酒が原因で職場や家庭に迷惑をかけたことがある。
 *酒が切れてくると次のような症状が出てくるが、飲むとよくなる(手指の振え、発汗、吐き気、イライラ、不眠)
 アルコール依存症なのに、身体面に現れた症状だけを治療されている人も多い。しかし、これではまた飲むことができる身体に治しただけである。アルコール依存症では、心身両面に働きかける治療が必要なのだ。

彰古館 往来
陸自三宿駐屯地・衛生学校
〈シリーズ 34〉
近代形成外科の原点
 我が国の形成外科の最も古い症例は、明治10年(1977)の西南戦争で、顔面損傷の患者の修復手術を大阪臨時陸軍で実施したものの記録があります。
 その後、陸軍では日清戦争、日露戦争を経て傷痍軍人の社会復帰の施策を進め、日露戦争では廃兵院の設置や失明軍人の職能補導を実施します。その後、軍事保護院の設置により、傷痍軍人の受けられる恩恵の範囲も広がって行きました。
 大東亜戦争では、多くの戦傷者が内地に帰還し各地の陸軍保養施設で予後を癒します。その中で、日常生活に支障こそ無いが、顔面の損傷によって社会復帰に不安を持つ人達もいたのです。陸軍軍医学校は特別診療室を開設して、こうした顔面損傷の患者を集中的に治療する方針を固めます。
 昭和12年ころから始まった形成外科治療を行ったのは、口腔外科の軍医達でした。顔面をも含む外科医ということで白羽の矢が立ったのです。それまでも各衛戌病院や戦地では応急的に顔面損傷を手術した例は多数ありますが、組織的に大掛かりな治療を行ったのは初めてのことです。
 彰古館にはこの治療を行った顔面損傷の模型が展示されています。まつげが植毛され、ひげの剃り跡までもが再現された精密なろう模型で、昭和12年(1937)から19年(1944)までの症例です。東京大空襲の中、破損しやすいろう模型をどうやって避難させたのか、今となっては謎です。近年まで、単に気味の悪い模型と考えられていたのですが、昨年大量の写真、X線写真、カルテが彰古館から発見され、その概要が判明しました。当時の学会誌に発表された治験論文もあり、先進的な手術内容が防衛医科大学校の口腔外科によって確認されたのです。
 写真は、砲弾片によって右頬が欠損した症例です。欠損部分が大きく、縫合は不可能です。例えお尻のお肉を持って来ても融合しません。そこで、首の皮膚の一部を削ぎ、欠損部に丸めるようにして縫合します。ただの植皮と異なるのは、根元は元の場所に繋がったままの血が通った皮膚だということです。この状態で数カ月を経ると、この皮膚の下には、新しい頬の肉が再生されているのです。その後、皮膚を元の部分に縫合する場合もあります。この手術法は現在の形成でも盛んに行われています。この手術が、70年近く前に軍医学校の口腔外科医によって確立していたのです。
 ただでさえ戦時の軍医不足で、民間医や医大生までもが動員された時代です。戦傷病の何たるかを知らないまま戦地に赴任させるわけにはいかないと、後輩思いの軍医たちが、大変な予算と時間と労力を掛けて、技術的にも難しいろう模型を教材として製作させたものなのでしょう。
 今では彰古館の一角でそっと目を閉じているろう模型たち。彼らのその後の人生を思うと、戦傷者の社会復帰に力を入れていた軍医たちの「仁」の精神を感じずにはいられません。その精神は、陸上自衛隊衛生学校の教育理念として、現在の医療従事者へ脈々と継承されているのです。

シリーズ イラク派遣を終えて
空自南西航空警戒管制隊
第5高射群第18高射隊 空士長 古田修平
 私は、第2期イラク復興支援派遣輸送航空隊における警備小隊の一員として、4月17日から7月21日までの約3ヵ月間、クウェートのアリ・アルサレム空軍基地に派遣されました。
 昨年の12月に派遣候補者となり、それ以降、射撃及び応急救護などの各種訓練、予防接種、そして小牧での事前教育等で派遣までの約半年間は、慌ただしくアッという間に過ぎていきました。しかし、その間にもイラクや世界各国では、米軍や一般市民などに対する自爆テロなどが頻発しており、ニュースや新聞で見るたびに自分がそのような場所に行って「無事に帰って来れるのか?」とよく不安に思っていました。
 両親に見送られ、政府専用機で現地に着くと早速、砂嵐の洗礼を受け、いよいよ砂漢での生活が始まるんだと実感しました。現地で勤務に就くと防弾装備で実弾を携行しての勤務であったため、いくらクウェートが安全といえども、常に緊張を強いられる状態でした。
 現地での生活に慣れると、最初に想像していたよりも快適で厚生物品等の充実ぶりには驚きました。しかし、食事の面では最初の2ヵ月間は現地のホテルからのケータリング方式でなかなか舌に合わず、次第にデザートのケーキやフルーツが主食になる毎日が続きました。さすがに、この頃には和食が恋しくなり、クウェート市内へ外出した際に食べた鉄火丼とざるそばが最高に美味しかったです。
 現地で1カ月も生活すると、協力して警備している米兵の中にも知り合いが出来始めましたが、はじめの頃は毎日の会話は身ぶり手振りで伝えるのが精一杯でした。しかし、自分にとっては実践的な英会話の機会となり、良い勉強になりました。
 6月や7月になってくると気温が40℃を超えるのが普通になり、哨舎の中で50℃を超えた時には、地球全体がサウナになったような感覚で熱風が体にまとわりつきました。業務で使用している車両もオーバーヒート寸前で、また車両のハンドルや携行している小銃を素手で触ろうとすると火傷しそうになり、この世界で生活していると、いつの日か自分が壊れてしまうのではないかと思いました。しかし今、クウェートでの勤務を思い出すと、3ヵ月間はあっという間に過ぎ、毎日が新鮮で驚きの日々でありました。
 このような貴重な経験をすることが出来、また全国各地から集まった仲間と勤務できたことを大変誇りに思います。これからも復興支援で培った経験を活かし、日々の業務、訓練に発揮していきたいと思います。
 そして、また機会があればイラク等の現地に行き、国際社会、ひいては日本国の為に貢献していきたいと思います。
写真=古田士長(右)と米軍関係者(クウェートで)

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