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   2004年4月1日号
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<寄せ書き>
男群れからの旅立ちを前に
新潟地連柏崎募集事務所長 2陸尉  安楽久裕
 昭和44年7月、大きな夢と幾ばくかの不安を胸に陸上自衛隊に入隊以来、早30数年。いよいよ今春晴れて定年退官を迎えようとしている。
 私が入隊をした当時は、まさに「人手不足」も頂点の頃で誰もが1・2度は家に広報官が訪れ「アンちゃん自衛隊は如何」の言葉をかけられたはずである。
 ところが、我が家には待てど暮らせど一度として広報官にお出でいただいた記憶はない。それもそのはず。当時地元の札付きの悪党で、広報官のお付き合いの前にお巡りさんとのお付き合いが頻繁の毎日を送る私のところは、広報官も敬遠したのではないかと思われる。
 家路で何気なく通りかかった地連の前でポスターを眺めていると、「アンちゃん、良かったらよってお茶でも」と中から広報官に声を掛けていただき、日々の生活で身に付いた制服姿を見ると逃げ出したくなる本能を懸命に押さえて事務所の中へ入れてもらったのが、今考えると私の自堕落な人生の終止符になったわけである。
 幸運にも「人手不足」という時代的後押しもあり運良く入隊することができ、新隊員教育隊(武山)後期教育(高田)と過ごすうち自衛官としての水があったのか、努力すれば道が開かれるという自衛隊特有の開かれた組織のお陰で、少しずつだがまともに成りつつある自己を自覚することができた。そんな折り、親身になって私の将来を心配して陸曹候補生の勉強を教えてくれた営内班長、「陸曹候補生の選抜試験に受かって中隊の皆にお前の意地を見せてみろ」と言ってくれた中隊長他、多くの上司、同僚のお陰で「俺でももしかしたら3曹に」という希望を持てるまで時間はかからなかった。
 厳しい訓練について一言述べれば、1・2昼夜の連続した行進訓練などは本当にきつく部隊に帰ったらやめようと何度思ったかしれないが、その時の任務達成の自信がその後の人生に大いに役立っている。また、その困難な経験こそが部下との無言の信頼感につながることを確信したのも、自衛隊での良い教訓と自覚する次第である。
 すばらしい組織に育まれ、北海道(別海)勤務、高田での普通科隊員としての勤務を通じ平成5年、晴れて3尉候補者に選抜され、最後の勤務として、新潟地連の募集事務所長勤務をさせていただいているが、自衛官として若き日々を過ごし、その職を全うできることに、限りない喜びを感じ、大きな誇りとして自信を持って今後の人生を歩もうと決意している。また、若き日の自堕落な自分を導き、このような有意義な人生を送らせていただいた自衛隊という素晴しい組織に心から感謝するとともに、1つの仕事を全うした自分自身を心から褒めたいと思うのも偽らざる今の気持ちである。
 今後はこの素晴しい組織を外から広報させていただきたく思っている今日この頃である。

「頑張っています」 新しい職場
活躍するOB シリーズ
秋田県総合公社脳血管研究センター管理事務所  兼子 雄次
兼子氏は平成7年10月、第21普通科連隊(秋田)を3陸尉で定年退職。62歳
 早いもので定年を迎えて8年にもなりました。少しばかりの不安と希望が交差する中、お陰様で再就職も2度目。この8年間、一般企業が、数ある組織の中でも特に規律の厳しい自衛官に何を求めているのか、私なり感じたことが、これから定年を迎える若しくは任期満了する後輩の皆さんの参考になれば幸いです。
 さて、私が再就職した最初の会社は設備会社で、職名は車両・資材管理係でした。しかし私は入隊以来、普通科一筋で資材の管理や車両を整備することなど皆目わからなくて、面接の時に車両の整備は全く出来ない旨申し上げましたが、整備といっても、整備が必要なときは会社と取引している整備会社に出してもらえれば良いということなので就職しました。実際に会社の管理というものをやってみると、自衛隊でいう補給・車両・輸送・火器を全部まとめたようなもので正面が思ったより広く感じました。この会社は、物を作るという技術に関しては絶対的自信を持っているが、管理などということに関しては上司はもとより社員にも全く関心がないようでした。そんな事もあり、ある意味では私なりに好きなように計画をたてることができました。毎週月曜日に朝礼があり、その時、安全運転管理者として若い社員に少しずつ機会教育をするとともに配車計画、車両整備一覧、器資材一覧現況表の作成など現職当時、各係陸曹がやっていたことのほんの一部をやってみたら上司から感心された事が大変意外でした。普段、万事教育訓練が基本の自衛隊の人となりを、企業が求めているのが良く理解できました。
 ここを60歳の定年ののち、現在の職場である秋田県立脳血管研究センターに再就職しました。身分は警備部門の嘱託でした。平成14年4月、航空自衛隊の退職者と2人同時に採用になりましたが、自衛官の頃は国家的な仕事でしたが、今度は患者さんが相手のサービスが仕事なので言葉遣いなどで気を使います。ここでも今まで長年、自衛隊以外でやってきた電話の対応と自衛隊で培った基本動作などが良い印象を与えているようです。
 以上のような私の就職体験でありますが、一般社会は目を開くと荒んだニュースしかない現在では、企業は「基本的な規律や動作」が出来る人材、つまり自衛官を求める所以ではないかと思います。

回想の70年代 (29)
薬師丸ひろ子の軌跡
 だいき いささか旧聞に属しますが新春の1月3日にTBS系で放映された「ブラックジャックによろしく」(主演・妻夫木聡)に薬師丸ひろ子が末期ガンの主婦役で出演、難しい役柄を見事に演じていました。
 ひろか パパが薬師丸ひろ子の演技をこんなに一生懸命観たのは、あの衝撃的なデビュー作「野生の証明」('79、もちろん角川映画!)以来だって。当時たしか中学2年生くらいだと思いますが、独特の透きとおるようなイメージがあってね。
 だいき パパは当時と今とで一つ大きく違うところを発見したんだって。その答えは後回しにして、話を音楽に進めよう。
 ひろか この映画のテーマ曲は町田義人というバラード・シンガーが歌う「戦士の休息」という題名の曲だったと記憶しています。彼はもともとズー・ニー・ブーというグループサウンズのヴォーカルで「白いサンゴ礁」というヒット曲を持っているんです。その後ソロ歌手にして「戦士の休息」が大ヒットするんですが…。
 だいき "ありがとう温もりを…"をいう歌い出しだったね。残念なことに町田義人は同じ角川映画「人間の証明」のテーマ曲から大ヒットしたジョー山中("ママ・ドゥ・ユー・リメンバー……")みたいに名曲番組に出てこないんだ。
 ひろか その後も薬師丸ひろ子が出演した映画からは時代を超える名曲が出ていますよ。
 だいき そう。鶴見辰吾と共演した「翔んだカップル」('81)からH20というグループの歌った「思い出がいっぱい」。曲名だけ言われてピーンと来ない方でも"大人の階段のぼる君は未だシンデレラさ"というサビフレーズは聞き覚えあるのでは?
 ひろか 続いて82年の「セーラー服と機関銃」では自ら同名のテーマ曲を歌っています。同時にこの曲の作曲をした来生たかおが別の詞で「夢の途中」という題名で歌ってダブル・ヒットしましたね。来生えつ子・たかおの最強姉弟コンビの大活躍してた時代です。
 だいき ところで今では誰も憶えていないと思いますが、映画「野性の証明」の大ヒットのあと、某テレビ局が映画の方のオーディションで2位だった女の子を使ってTVドラマ版を作ったことがあるんですよ。もちろんストーリーの設定も配役も矮小化されちゃってコケましたがね。薬師丸ひろ子と高倉健サンの組合せじゃなきやダメだったということ。
 〈当時と今の薬師丸ひろ子の違い:右目の下のほくろがしわの中に隠れてしまっている……みたい。ハイビジョンTVで見ればちゃんと見えるのか?〉
 いかりや長介さま、謹んでご冥福をお祈りします。このコーナーでも必ず取り上げますよ。

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