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   2004年3月15日号
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寄せ書き
病気との付き合い方
44普連第3中隊 曹長  梅津清次
 私は、平成11年10月に肺腫瘍の疑いで左の肺を半分摘出する手術を受け、2年後フルマラソンに挑戦。今までフルマラソンは10回走っていますが、病気以来初めてで、少し早く走ろうとすると、すぐ息切れし1kmを6分で走り抜くのが精一杯でしたが、楽しい仲間5人の助けを受け無事完走する事が出来ました。
 普段の生活では何の不自由も無いのですが、階段や坂道などでは今でも苦労しています。
 そんな時、2ヶ月前にアキレス腱を切って手術を受けました。医者が言うには「普段の生活には支障無いがアキレス腱どうしは繋ぐことが出来ないので今までのような運動は出来ない」と書われ最初は少しガッカリしました。
 しかし今では少しずづ軽い運動をし、また、楽しみを増やしながら病気と楽しく付き合っていこうと思っています。
 それが病気を悪化させず治していける力になると考え、前向きに楽しい人生を送っていきたいと思っています。
風になりたい
第44普連第3中隊 士長  郷野岳史
 私の趣味は「自転車」です。自転車と言ってもカゴの付いている物ではなく、ロードバイクと呼ばれるスピードを求める自転車で、慣れるには時間がかかりますが、乗り慣れてしまえば信じられない程の加速とスピードを体感する事が出来ます。
 なぜロードバイクに興味を持つようになったかと言うとテレビでツール・ド・フランスを見てからです。
 ツール・ド・フランスとは、フランスを約1ヶ月かけて1周する世界的に有名なロードレースで、プロのチームのみが参加出来るレベルの高いレースです。
 私は、ロードバイクに乗って日が浅く、まだ大きなレースには出られないので、これからは休日を利用してトレーニングをし、小さなレースから出られるように頑張っていきたいと思います。
初めてのアイスキャンドル支援
第3普連対戦車中隊 2陸曹  宮崎 茂
 毎年この時期になると恒例の下川町「アイスキャンドル」支援がある。今年は自分が作業の長として指名された。
 その作業内容とは、イベントで使うメインステージ作りだ。大きさについては高さ約8メートル、幅35メートルの城型の物である。このステージにアイスキャンドルを置きロウソクに火を灯もすと淡いオレンジ色に輝き、雪像のライトアップとはまた違った美しさがある。
 とにかく初めての経験だったので色々大変なこともあった。毎年作業に入る前には、外観はある程度出来上がった状態になっているが、今年は雪が少ないためか、まだ雪を盛っている状態で傍然とした。「これで間に合うのか」と思った。期日があるため、かなり焦りを感じていた。
 また、突発的なことも起った。作業場の裏にある道路の脇に用水路(高さ約2メートル幅1.5メートル)があり、その中に中学生くらいの子供が落ちて、助けを求められ全員で助けに行ったりと、初めて経験することが多々あった。
 常に柔軟な考えを持ち行動や命令することは難しいと改めて痛感させられた。
 2月14日からイベントが始まり今までやってこられたのも、下川町の方々をはじめ各中隊の支援のおかげと感謝している。この先、自衛隊の支援内容も変化していくことと思い、この貴重な体験を生かし日々努力したい。

回想の70年代音楽 28
(続)カネボウの凋落
 だいき 今から約四半世紀前の一九七七年春に流行った尾崎亜美の「マイ・ピュア・レディ」あたりが化粧品のキャンペーン曲のはしりではないでしょうか。カネボウなのか資生堂なのかは忘れましたが。
 ひろか ちょうどパパは大学入試も終わって心ウキウキ、ワクワクだったんで記憶に残ってるようですが…、ところであの曲、サビの部分は大変よく流れておりましたが、それ以外の部分って抑揚がなくて冗長という気がしませんか?
 だいき 尾崎亜美ってポスト・ユーミンの有力候補として注目されてましたが、人気・実力ともいま一歩だった気がしますね。ポスト・ユーミンはユーミン(松任谷由美)というこのアイロニーはいつかまた取り上げたいです。
 ひろか で、話を化粧品に戻しますと、キャンペーン曲として使われた忘れ難い名曲ってどんなのがありますか?大体、キャンペーンって春夏秋冬ごとにあったんですか?
 だいき だと思いますよ。で、春というとなんか口紅系の曲が多かったような。松田聖子「ロックン・ルージュ」('83)岡田有希子「くちびるネットワーク」('86)
 ひろか 渡辺真知子の「くちびるよ熱く君を語れ」('80?)とか南野陽子の「吐息でネット」('87)なんてのもありましたね。岡田有希子や南野陽子というのは70年代からのアイドル路線の流れの最後の煌きという感じで忘れられない存在なんです。
 だいき 夏というとUVケアしてから灼熱の太陽の下に飛び出そうって感じで、ツイスト「燃えろいい女」('79)が代表格でしょうか。その後、クリスタル・キング(ツイストと同じくヤマハのポプコン出身だ!)が「大都会」の大ヒットの次に80年夏のキャンペーン曲をやりましたが不完全燃焼でした。
 ひろか 80年って多分冷夏だったと思いますが、もちろんそんなことが原因じゃなくてクリスタル・キングには本来、化粧品のイメージソングってなじまなかったんだろうな。
 だいき 秋冬の方では南こうせつ「夢一夜」('78?)が断トツにいいですね。パパも四畳半フォークのこうせつにはなじめなかったが、あの曲をきっかけに好きになったと言ってるよ。
 ひろか 詩全体がきちんとストーリーになってて、人を好きになる気持ちの表側の昂揚感と裏側の切なさを見事に歌い上げていましたからね。サビの部分だけアピールすればとりあえずOKのCMソングとは格が違う?
 だいき ところで前回、卒業をテーマにした曲のことを書きましたが、70年代にもアイドル歌手の歌ったやつがありました。倉田まり子「グラデュエーション」(この曲名で正しい?)、79年唯一のアイドル系ヒット曲と言ってよいでしょう。
 ひろか 彼女に関してはここで筆を止めるのがよろしいかと…

「頑張っています」 新しい職場
活躍するOB シリーズ
(株)大垣共立銀行墨俣(すのまた)支店  小岩 明
小岩氏は平成15年4月、空自第2補給処を3尉で定年退職。54歳
 平成15年4月、航空自衛隊岐阜基地第2補給処を最後に定年退職し、約1年が経過しようとしています。
 何事も初めての事ばかりで、仕事(時間)に追われながらも、最近少しずつ、その内容と環境(人間関係)などに馴れ親しんできたような気がします。
 退官後の再就職先は、単純に数字、計算、パソコンを使う仕事には就かず、樹木、芝など自然を相手にする仕事、自分の趣味としている庭木の剪定、ゴルフ場の庭園管理をする仕事、庭師など健康的な環境場所で勤務しようと気楽に考えていました。しかし、近場で通勤に便のよいゴルフ場を2〜3カ所当たってみると、募集しているどころか、その反対のところが多く、また退官の時期も悪く、4月は就職口が多いかわりに、新卒者も多くあり、我々のような中高年者の入り込む余地は少なく、基地援護業務担当者のはからいで、現在の大垣共立銀行墨俣支店にお世話になることに決まりました。
 当銀行は国内、国外を含めた総預金量は3兆円を超えた中型地方銀行で、本店は天下分け目の合戦があった関ヶ原のすぐ東に位置した大垣市にあります。岐阜県内はもとより愛知、三重、滋賀県内にも拠点を置き、海外にも営業を展開しています。先進的な銀行としてお客様、株主、市場からも評価されており、今では当たり前となっていますが、土日祝休日のキャッシュカードによる取引を全国で最初に開始した銀行です。そしてお客様の利便性を追求し、親しまれ信頼される銀行を理念とし、さまざまなサービスを手掛けて邁進している銀行でもあります。
 仕事の内容は端的にいえば「なんでもすぐやる係」「便利屋」に加えて銀行員業務と幅広い仕事です。毎日がお客様「人」と接する仕事で、また特に信用、信頼のうえに成り立つ銀行業務ですので、お客様との信頼(人間)関係を保持し築きながら多くの方々にご利用いただけるよう頑張っていきたいと思っています。
 最後に定年退職し再就職するにあたり、つきなみなことですが、現在は「資格」の世の中で資格も重要かも知れませんが、企業が求めているのは、健康で明るい人、腰が低く動ける人のようです。定年3年くらい前からは既往症などがあれば徹底的に治療し、健康体で就職に臨めるような心掛けが大事だと思います。

<部外者の声>
 昨春、防衛大学校に佐渡郡出身として、32年ぶりの入校となった三輪幸太君のお父様の現在の心境が新潟地連(部長・中野1佐)から寄せられましたので紹介します
息子の防衛大入校に寄せて
三輪智久
 息子が防衛大入校を決めたのは、去年の3月下旬、入校式の十数日前。国立大学後期試験の結果が出た直後でした。
 医師である私は、温厚で正義感があり手先の器用な長男に、医学の道に進んで欲しいと日頃から期待していました。しかし、現実はとても厳しい結果を押し付けてきました。防衛大・防衛医大・国立大医学部を受験した結果、防衛大以外すべて不合格でした。「1年ぐらい浪人すればいいじゃないか」と言う私に、「浪人して医学部に入ったって…」「俺は防衛大へ入りたいんだ」と話し合いは平行線を辿り、結局私が折れることで決着しました。入校式までの時間は僅かで、あまりに急なことで時間も取れず、携帯電話とノートパソコンを持たせて、慌ただしく送りだすのが精一杯でした。
 「防衛大とはどんなところなのか」と考えても私には全く知識が無く、とても心配しました。私は名古屋市私立東海高校出身ですが、34年前に同級生の1人に、「防衛大入学が決まりました」と挨拶されたのを今でも何故か鮮やかに記憶しています。
 入学当初、連絡を取ろうとしてもなかなか取れず困りました。4月下旬に息子が「電話も手紙も一切するな」と言ってきたときにはショックでしたが、今考えると弱気になる心を抑えるためではと思っています。夏休みに帰省したとき、肉体的にも精神的にも逞しくなったと感じました。
 これから3年数ヶ月、一般大学とは天と地ほど異なる厳しい環境で生活することで、更に成長するのではと思います。私の心の中では、まだ少々こだわりを持っていますが、自分で選んだ道なので、最後までやり遂げて欲しいと思っています。
F-2が大空に映える
大阪地連女性防衛モニター 河内山美智子
 大阪から車で3時間、それは岐阜県各務原市にありました。今回の見学地は、航空自衛隊岐阜基地。この基地は、明治初期に旧陸軍の射撃場として使用されたのが最初だそうで、特に広報館の石柱や、回廊はその趣を残した木造の素敵な雰囲気でした。
 高台に登ると、基地の色々な建物が一望できこの基地の広さに驚きました。そこで説明を受けている間にも、F-2が飛ぶ飛ぶ! 全長2,700m幅45mの見事な滑走路から飛び立つジェット戦闘機は圧巻でした。
 そして、何とあの地対空誘導弾ペトリオットが見られるとは!。ゲートを通過する時に、ライター類の回収があったりと厳重警備で、さすがにペトリオット級になると、物々しさが違う!と緊張感が高まりました。ミサイル・ランチャーを目の前に、この中に大きな迎撃ミサイルが格納されているのだと思うとドキドキしました。永久に発射されることがないように祈ると同時に、ペトリオットがあることで安心を感じました。
 他にも、大きなレーダー装置やアンテナを見ていると、この基地が国防の上でも重要な拠点になっていることがわかりました。現代マシンテクノロジーの粋を結集した戦闘機の飛び交う岐阜基地は、「日本の未来を担う希望」に思えました。

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