防衛ホーム新聞社・自衛隊ニュース 防衛ホーム新聞社 防衛ホーム新聞社
   2003年10月1日号
 1面 2面 3面 5面 6面 7面 8面 9面 10面 11面 12面

Nice Guys シリーズ
航空自衛隊は技術者集団
石川曹長は給養員(調理師)一筋
「食べる側の気持ちになって」
 石川光行(いしかわ・みつゆき)空曹長(43歳)【家族構成】妻と子供3人【保有公資格】調理師
 〈部隊歴)▽防空指揮群(府中)昭和56年8月〜平成6年12月▽幹部学校に平成6年12月以降勤務している。
 〈航空自衛隊に入隊した動機、きっかけ〉当初は、海上自衛隊に入隊し「船上勤務となれば世界各国に行くことが出来る」と希望を持って受験しました。ところが、受験後に募集担当の方から「海自もいいが、空自はもっと良いぞ」と、空自への入隊を勧められているうちに、気がつけば熊谷に入隊していました。後で聞いたのですが、「海自は募集定員をオーバーしていた」と言うのが本当のところです。
 〈職種が給養員に決まった時のエピソード〉私の通っていた高校は調理科で、授業の一環として陸上自衛隊への体験入隊があり、2泊3日で給食の作業を実習しました。その時は、食事を作っているという印象はなかったと思います。したがって、当時、給養員にあまり魅力を感じていなかったというのが本音です。
 さて、熊谷での教育期間もわずかとなり、いよいよ職種分け、私も希望する職種を記入しました。当然、「給養」とは記入しませんでした。すると、区隊長面接の時に「給養員を希望する隊員はほとんどいない」と説得され、実習の時の印象などを話して逃げようとしましたが、「それなら、良くないところは自分で変えて見ろ!」と励まされ(?)、晴れて給養員になった訳です。
 〈失敗談、苦労話、思い出〉初級給養員課程を卒業し部隊(府中)へ配属されました。当時、現場には現場長(1曹)と技官2名、空士自衛官が自分を含めて6名おりました。先輩の黒木士長(現在、恩納分頓基地給食係長、黒木1曹)から「勤務時間中は、作業服は綺麗に洗濯してプレスの利いたもの、編上靴は磨いたものでブーツバンド着用」と厳しく指導されました。しかし、当然といえば当然ですが、部隊生活になれてくると楽なことに慣れるのは簡単です。「ちょっとくらい良いじゃないか」とか「面倒くさい」などと思っていました。すると黒木先輩から「給養員は、臭いがあるとだらしない!」、「服装が乱れているなどは言語道断である」と、また、班朝礼が終了すると教練や持続走、銃剣道で、昼休みに昼寝などしていようものなら、「体でも鍛えんかい!」と檄を飛ばされました。更に、銃剣道の合宿に入っている時のことでした。午前の練習が終わると昼食の配食、その後夕食の準備。また、午後の練習が終わると夕食の配食と朝食の準備という具合で、私は、どうしてそこまでするのかと聞いたことがありました。先輩の答えは「我々は、勤務員が少ない職場から合宿に行かせてもらっているからだ」ということでした。そんな先輩に鍛えられたおかげで、今の自分があると感謝しています。
 〈自己の技量に自信が持てるようになったきっかけ〉食べる人が「あいつなら大丈夫!」と言ってくれるようになってからです。ただ、それがいつからなのかは分かりません。相手に満足してもらうためには相当の努力をしなければならないことも事実なのです。
 〈思い出の一品、最高の仕事だったと認識している料理〉府中基地に勤務している頃、総隊司令部からの会食依頼がありました。メインを「子羊の香草焼き」としたところ、今でこそこのメニューは認識されていますが、当時の総務部長には「司令官の会食に羊の肉を使うとは何事か!」と叱られたことがありました。私なりに自信を持って作った料理だったのですが…。ところが、次の会食依頼が来た時に、司令官が「是非もう一度あの子羊の香草焼きを作ってもらいたい」と言われていると、総務部長から直々に伝えられたのです。別に特別褒められたわけでもないのですが、自分の料理、力量が認められたような気がした料理でした。
 〈給養職の重要性について感じていること〉給養は、自衛隊が任務を遂行する上で必ず必要なものです。ただ、有事(戦争、災害、国際貢献等)の時にどれだけ機能できるかと考えると、訓練することはもとより、それに対応できるよう給養に関わる隊員の意識をもっと改革しなければならないと思います。
 〈現場の指導者として心がけていること〉食べる側の気持ちになって、自己の出来うる最高の料理を目指して努力する。
 〈後輩に対するメッセージ〉何事にも全力を尽くせ。
 〈奥様に一言〉「まだまだ先は長いですが、これからもよろしくお願いします」

夜間の事故想定
火勢1000度を制圧
<2空団施設隊>
 千歳基地2空団施設は8月21日、夜間における航空機火災消火訓練を行った。(=写真)
 通常の訓練は、早朝など明るい時に行われるが、千歳基地ではナイトフライなど夜間における訓練が多いことから、夜間での事故を想定して年に数回、このような訓練を実施している。
 今回の訓練には、隊員33人が参加。夜間と霧雨という悪条件の中、隊員たちは1,000度に熱せられたダミー機に向って勇猛果敢に火勢の制圧に挑み、パイロットにみたてたダミー人形を救出した。

野球を通じて人生を語る
堀内氏が千歳基地で講話
 元読売巨人軍の投手・堀内恒夫氏が、航空自衛隊連合幹部会の招きで9月8、9日の両日、千歳基地を訪れ、隊員に対して講話と野球の技術指導を行った。
 堀内氏は、山梨県出身で甲府商業高校卒業後、第1回ドラフトで1位指名を受け巨人軍に入団。現役時代には、ピッチャーとして巨人軍を支え、V9を達成。更には新人王、MVPなど数々のタイトルを獲得した。
 8日には、隊員約200人を前に『私の野球人生』と題して講話した。その中で、堀内氏は「何かを実現するには夢を見ること、その中で目標ができ、工夫することが大事」と野球を通じて人生論について熱く語った。時には、野球界の裏話にも触れるなど、ジョークを交えての講話に会場は大いに沸いていた。
 翌日、ユニホーム姿で野球場に現れた堀内氏は、早速、選手達に独自のキャッチボールとバッティングの指導を行い、投手陣には堀内氏の武器であるカーブについて、ボールの握りや投球姿勢などを熱心に伝授していた。
 基地野球部は、22年前に創部され、部員は荒木健次監督以下22人。最近では都市対抗道決勝リーグに進むなど頭角を現している。

体育学校
実業団女子柔道大会
小松崎選手が初優勝
 第33回全日本実業柔道個人選手権大会が8月30・31日の両日、大阪・尼崎市で開催され、体育学校(校長・那須誠陸将補)から8名の選手が出場、78?超級で小松崎弘子選手が優勝を果たした。(写真)
 小松崎選手は今年4月、体育学校に入隊。世界大学柔道選手権での優勝経験を持ち、体校で唯一の女子選手としても期待が大きい。今大会では、準決勝で実質的に国内2番手の徳田選手(コマツ)を破り、次回11月の講道館杯(アテネオリンピック第一次選考会)では1番手の塚田選手(東海大学)打倒を目指す。
 体格的には他選手よりも身体が小さい小松崎選手だが、日本で勝つ事ができれば世界のメダルも夢ではない。日夜、監督酒井3佐の指導のもと、コーチ石川3海曹の公私を含む厳しい訓練に耐えてメダル獲得を目指しており、特に毎食時の食堂往復の85?のタイヤ引き風景は朝霞駐屯地の名物ともなっている。
  ◇ ◇
 その他の上位成績者の結果は次の通り
 ▽相牟田豊(81kg級)=ベスト8▽今田一成(60kg級)=同▽中村謙作(66kg級)=ベスト16

防衛ホーム 俳句コーナー
 秋暑し神馬に野性残りをり  紺野 透光
 晩菊の凛凛として勢ひあり  伊藤なおみ
 かさこそと風に応へて稲架襖  江口 景舟
 籾殻を焼きつつそこら片付けて  石田 和子
 溜息やもう直ぐ其処に冬見えて  岡野満寿子
 みちのくの芒に埋もる露天風呂  中矢斤子
 菊人形胸の薄きを隠しをり  稲沢 好美
 ふるさとの山川思ふ吊し柿  岩崎 政弘
 天竜の流れを耳に茸狩  安福 箭子
 死ぬるまでしるさむ日記秋灯下  島田 基三
 鳥渡る一夜泊りの旅に出て  須賀 きよ
 もうひとりの自分と新酒酌みにけり  鈴木 芳江
 検校の墓に供華とし木の実降る  棚橋 弘子
 新涼のやさしくなりしものの影  藤沢うらら
 綿虫の生命軽くはなかりけり  岩崎 悦子
 花芒風が私についてくる  丸岡 正男
 虫を聴く昨日と違ふ思ひして  杉田 庵
 母の声思ひ出せずに曇珠沙華  藤井 湖風
 秋桜駅より長き貨車着ける  駒野 英明
 萩こぼれ朝な夕なの鐘を聞く  西田真由美
   選者吟
 地に還るほかなくなりし木の実落つ  保坂 伸秋
     (「栃の芽」誌提供)
 「栃の芽」誌をご希望の方は〈栃の芽会連絡先=仙台防衛施設局総務部・畠中草史氏 電話022・295・1281〉へご連絡下さい。

9面へ

(ヘルプ)

Copyright (C) 2001-2014 Boueihome Shinbun Inc