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   2003年4月1日号
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自衛隊史跡めぐりシリーズ
鎮西精武館 大村駐屯地
 陸上自衛隊大村駐屯地が所在する大村市は、長崎県のほぼ中央部に位置し、古くは長崎街道沿いの静かな2万8千石の城下町でした。現在は人口約8万8千人で、長崎県内では年間約1,000人ずつ増加している活気あふれる街でもあります。
 長崎県の空の玄関口「長崎空港」を擁する大村市は、東に標高千メートルの多良山系により佐賀県と境し、西は大村湾、北は佐世保市、南は諌早市に接しています。大村といえば西洋の記録にも、その名をとどめる日本最初のキリシタン大名「大村純忠」候やポルトガル宣教師と組んで領地の長崎を開港し、天正年間に天正使節をローマに派遣するなど、海外との交流にまつわる数多くの史跡や美しい自然に恵まれた風光明媚な街です。また、県央位置の優位性を生かし、世界初の海上空港である長崎空港や長崎自動車道など、長崎県の交通物流拠点として近年めざましい発展を遂げ、その整備・発展に従い、企業の誘致と先端技術の導入も進んでいます。
 大村駐屯地史料館「鎮西精武館」は、日清戦争が終わった翌年の明治29年5月1日の布告で同年9月、熊本で歩兵第46聯隊が編成され、明治30年6月、大村放虎原(現在の大村駐屯
地)に創設されました。歩兵第46聯隊が設置されるに伴って御用商人、旅館、飲食店、料理店などが、にわかにその数を増し、一般の町の様子も活気を取り戻し、翌31年に鉄道の長崎線(現大村線)が開通して、一層盛況を呈しました。
 明治30年6月、大村兵舎の新築がほぼ完成したことに伴い、第1大隊長・鈴田宣貞少佐が大隊を指揮、列車で熊本から乗車し武雄で下車。当時まだ長崎線は開通していなかったため、徒歩行軍により彼杵経由で前進。沿道の住民は、大村出身の隊長がやってくるというので、日の丸の小旗を振って部隊を迎え、10日午後1時に到着。ここに「大村陸軍」の第一歩を印したのです。
 その後、明治37年8月の日露戦争での奉天開戦に参加、昭和11年4月、満州に派遣された聯隊は北満の警備に従事するなど、その間、ここ大村駐屯地においては、留守歩兵第46聯隊を母隊として、太平洋戦争終局に至るまで、多くの部隊が次々に編成されました。
 明治30年歩兵第46連隊配置以来106年の歴史を持つ大村駐屯地では当時を偲べる明治の
建造物は3棟(史料館・外来宿舎・音楽部室)のみとなりました。史料館は、明治30年6月に建てられ、旧歩兵第46連隊の連隊本部として使用され、戦後、昭和27年7月、東彼杵郡江上村針尾(現在のハウステンボス)より、第10普通科連隊が移駐し、大村駐屯地の開設に伴い、連隊本部が置かれましたが、昭和55年、本部隊舎の建設とともに、史料館となり、明治のたたずまいを今に残しています。
 史料館に足を運ぶと、玄関口に「鎮西精武館」という立看板が迎え、階段の壁沿いに駐屯地全景の空撮写真を展示しています。建物の内部は16個の展示室に区分し、大村藩、明治・大正・昭和の旧軍史料、特に歩兵第46聯隊の戦史資料等約1,500点を展示しています。
 各展示室には、歴代聯隊長の写真、橘中佐コーナー、軍装品の数々、各掛け軸、書簡文、自衛隊コーナー、災害派遣コーナーなどが配置されてい表す。この展示品は、県内外はもとより旧軍関係者各位のご厚意により出展させてもらっている資料や寄贈されている品々です。年間数千名の見学者が訪れ、時代の変遷を物語る明治以来の貴重な遺稿に触れられています。

◇ ◇

 <開館時間>
月曜日〜金曜日08:00〜17:00
(土曜、日曜、祭日については申込みによります)
 <お問い合わせ先>
電話0957-52-2131内線(205・206)FAX兼用


趣味はビリヤード
第72戦車連隊第5中隊 3曹  金子 正博
 私は最近、ビリヤードに凝っています。4、5年前から本格的には1年前ぐらいからです

 そのきっかけは、中隊にビリヤードがとても上手い先輩がいて、初めて一緒に突きにいった時、1度も勝てず、彼から「本当に上手くなりたいなら自分のキュー(玉を突く棒)を
持った方がいいよ」といわれたことにあります。思い切って自分のキューを買い、先輩にビリヤードの基本を一から教えてもらいました。教わる度に自分が全くの素人だったんだということを思い知らされました。
 それから何度も教えてもらい「押し球」「引き球」「ひねり」を何とか使えるようになりました。それでも、手玉を突く時に少しでも突く位置がずれてしまうと、的球にあたる時の角度が変わりポケットになかなか入りません。最初のうちは、続けて2球入れるのが
やっとだったのに、練習を重ねているうちに3球・4球と続いて入るようになりだんだんビリヤードが楽しくなってきました。
 なぜ続けて入るようになったかというと、突く時に次に突く的球の位置を考えて、的球を入れつつ手玉を次の的球が突きやすい位置に来るように突く、という練習を何度もやっていたからです。そして何度もやっているうちに、先輩から1〜2セット取れるようになりました。
 まだまだレベルの差はありますが、これからも練習して更に上達できるように頑張ろうと思います。

「頑張っています」 新しい職場
活躍するOB シリーズ
住友信託銀行熊本支店  杉本 孝吉
 長びく景気の低迷により、企業の倒産やリストラが相次ぐ中、私も昨年定年を迎え、幸いにも援護センターのお世話で今の銀行に再就職させていただきました。当銀行は、これ迄長年に渡って多数の自衛隊出身者を採用していただき、私も前任者の定年を引き継いでの採用でした。
 このような雇用情勢の厳しい中、一貫して採用の門戸を開いていただき誠に有難いことですが、勿論この陰にはこれ迄勤めを果たされた多くの先輩が築かれた礎があってのこそであり、改めて感謝致しますとともに、これから先、この期待を裏切ることのできない重責を胸に、身の引き締まる思いで入社致しました。
 与えられた仕事は総務で、お金を扱う業務以外の全般サービス係とでもいったところでしょうか。普段は、同じOBの先輩達とローテーションを組み、それぞれ決められた手順に基づいて業務をこなしていくわけですが、この手順というのがこれ迄に創意工夫して効率化を図り、それを集大成したもので、実に無駄がなく、先輩達の能力の高さを実感しました。
 手順の方は覚えるまで大変でしたが、仕事の内容そのものは部隊の総務を経験した人なら誰でも出来ることで仕事上の違和感もなく自然と溶け込むことができました。
 ただ一点、自衛隊の時と違うところは営利企業であるというところです。私達の給与は勿論、会社の建物から店内の机、用紙の一枚に至るまですべて会社の経費で賄われているわけです。経費節減の折、私はこれ迄壊れて捨てるような物も努めて修理して使えるようにしたり、再利用したりしています。
 また、余暇を利用して趣味のパソコンなどを使って店内の掲示物や表示、看板などを、経費をかけないやり方で作製し、店内全般の環境美化にも一役買っています。
 とはいえ、やり過ぎて調和を乱す一人よがりとなっては元も子もなくなってしまいます。この点にも気を配りながら、かつ前向きに会社の利益に少しでも貢献できるサービスをこれからも心掛けて行きたいと思っています。
 そして5年後、しっかりとバトンタッチできるよう頑張ります。

『得てに帆を揚げよ』(中)
娘は元自衛官
第9特科連隊 3陸佐  穗高 均
 ○年が変わり、7年3月3日高校を卒業して、12日には入隊者激励会があり、入隊に向けての諸準備を始めた。(同じくして、私自身も3月の定期異動により第9師団司令部(青森駐屯地)勤務を命ぜられ、娘より一足先に青森へ単身赴任した。
 ○4月1日:娘は地方連絡部の広報官に引率され婦教(朝霞)へ出発した。修学旅行以外は家から離れたことのない娘が、自ら選んだ自衛官としての第一歩を踏み出したのだ。
 ○5月(GW):娘が入隊後初めて帰省した。「官品」とか「ブッカンバ」とかの自衛隊用語をごく自然に話しているかと思えば、「小火器射撃の中間姿勢が難しい」とか「ほふく前進が大変だ」ともいう。勿論、話し相手は私である。そして、「休暇中に自衛隊体操を覚えたいから教えて」と頼まれた。イヤだという断る理由もなく近くの運動公園に出かけテープを流し見本を示して練習させた。(親子でちょっと変わった体操をしている様をジョギング中の者が足を止め眺めているのが気恥ずかしかった。)
 ○「明日の早い汽車で帰ればいいのに…」と1日でも1時間でも長く家におきたくて、妻が一生懸命に説得してるが、娘はガンとして、「1日早く帰隊して教育準備をしなくては…」と言う。私は、そのやりとりを聞きながら、当然娘の行動計画に賛成し、その前向きな姿勢を嬉しく思っていた。
 ○6月30日:前期教育の修了式を迎え、私も妻と共に参加した。式場で多くの同期生達と一緒に行動している中で、娘だけが光輝いて見えたりするのだから親というのは可笑しいものである。区隊長賞までいただいて娘は立派に成長していると思った。
 ○7月6日:希望する任地(岩手)で第9特科連隊所属になり、特科隊員としての教育が開始された。第9特科連隊は、私の原隊でもあり半年前まで勤務していた部隊でもあることから、「男子隊員と一緒に砲班訓練をやっているよ」「明日は射撃検定があると言っていたよ」また「体調を崩して医務室に行った」等々多くの人から娘に関する情報が入ってくる。特科連隊長からも師団司令部(青森)にくるたびに、わざわざ訪ねて頂いて娘の近況について教えて頂いた。こうして、素晴らしい環境の中で、我が娘は順風満帆自衛官の道を進むハズだった。が、後期教育終了を間近にしたある日、そのことは突然やってきた。『自衛隊を辞めたい…』という娘からのメッセージである。当然、「何故だ」と理由を問いただすと、「入隊前に描いていた自衛隊のイメージと現実とに少しずつズレが出てきて、…今はもう…私は自衛隊では生きていけないと思ったの…人間関係も難しいし…自分の気持ちを誤魔化せば勤まらないことはないと思うけど、そういう生き方はイヤだし、周りにも悪いし、やっぱり福祉(介護)の仕事をやりたいと思うから…」
 考えても見なかった退職申し出に些か心の動揺を隠せなかった。ハッキリとした理由を特定できないまま「くじけずに頑張れ、今度、週末に帰るからその時また話そう」と激励する。その後何度か話し合ったが結論が出ないまま後期教育を修了し、連隊本部中隊に配置された。
 中隊長の最初の面接でも退職したい旨の意思表示があり、今度は、中隊長を介しての指導(説得)が始まった。中隊長は、「早急に結論を出さず、時間を掛けて…」と、本人の気持ちの変化を期待し待つ方法を最良とし、指導(説得)にあたってくれた。私自身、営内班長の経験があり、中隊長時代は退職申し出隊員を指導した経験もあるが、まさか我が娘を指導するようになろうとは…しかも、現職は師団の人事第2班長職にあるのだからその心境は複雑だ。

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