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   2002年12月15日号
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カザフスタン映画祭を開催
―― 陸自広報センター ――
 朝霞駐屯地の陸上自衛隊広報センターでは10月19〜20日および11月1日に中央アジア・カザフスタン映画祭が開催された。

 在日カザフスタン大使館の後援を受けてのイベントはもちろん、広報センターでの映画祭は初めてのことで、開催中、訪れた人たちはなじみの薄い中央アジア・カザフスタンの世界を招かれた各界のゲストとともに満喫した。今回上映されたのは「ラストホリデー」「アクスアット」「3人兄弟」の3作品。いずれも現在、東部方面総監部広報課に勤務する佐野伸寿3佐が製作に携わった作品で、それぞれ日本だけでなく海外からも高く評価され、各国映画祭で数々の賞を受賞してきた。

 11月1日はゲストとして小池百合子衆議院議員がビデオ出演。中央アジアと日本についてなど語った後、「3人兄弟」が上映された。カザフスタンの一つの村を舞台にそこでの生活と子供たちの心の模様を織り交ぜて綴られた作品で上映後、観客からは「カザフスタンの映画は初めて観ましたが、素朴な生活の中にある子供たちの純粋さが印象に残りました」と感想が聞けた。

 今回の映画祭の実行委員でもある東方総監部広報の一人は「映画祭という文化事業は初めてだったが、広報センターの存在を内外にアピールできたのではないか」と語った。また、亀野宏通広報センター長は「自衛隊に興味の無い人にも映画祭のようなイベントを通じて広報センターを知ってもらいたいと思う。これからも色々な企画を試してみたい」とその意気込みを語った。
陸栄会メンバーも来館
 11月30日には、陸上自衛隊の将官クラスの夫人で組織する陸栄会の一行約40人が広報センターを訪れた。

回想の70年代音楽(1)
「亜麻色の髪の乙女」
 現役事務官から「回想の70年代音楽」として投稿がありましたのでシリーズで紹介します。

 ◇ ◇

 だいき 最近のいわゆるJポップってやつになじめない中年のために懐かしい70年代のヒット曲を流してくれるテレビ番組が時々ありますね。▽7月5日テレビ東京「夏祭りにっぽんの歌」▽8月10日NHK「思い出のメディー」▽8月14日フジテレビ「夜のヒットパレード」
 ひろか そう、そして自分たちもすっかりおじさん、おばさんになっているのに、歌手の方が白髪が多いとか、太ったとかしわが多いと論評しながら、あの頃はああだった、こうだったと話し合ってる。
 だいき まあ、うちのパパにとって70年代は青春の真っただ中みたいだから…
 ひろか うん、1971年中学校入学、74年高校入学、77年大学入学、そして81年3月大学卒業だもんね。でもね、ママは4つ年下だけど、当時の歌は同じくらいよく知ってる。私と同じように早熟だったのかナ。
 だいき そんなのどうでもいいけど、今年のキーワードは何といっても「亜麻色の髪の乙女」だな。これ68年のヒット曲だから厳密に言うと70年代じゃないんだけど。パパなんかNHKでヴィレッジ・シンガーズ、つまり昔の方、フジテレビで今の島谷ひとみが歌ってるのを見て興奮してたよ。名曲は時代を超えるって。それと、NHKに出ていた清水道夫(ヴィレッジ・シンガーズのボーカル)が随分自分のイメージと違ってたんだってさ。
 ひろか 前から酔った時にカラオケで歌ったりしてたから。ママに、これはキミのための歌だなんて言ったりして。
 だいき 歌詞の中にママの名字(夫婦別姓だから今も同じ名字だよ)が出てくるのは間違いないけど。でも、あの歌って難しいんだよね。長野に清水道夫のニセ者が現れたってスポーツ紙で見たけど、そいつの歌も聴いてみたい。
 ひろか 今年の紅白の目玉になるかも…(編集部注:この男は詐欺で懲役の実刑判決を受けたのでそりゃムリでしょう。)まあ、おふざけはこのくらいにして、今回はクイズを一つ。「亜麻色の髪の乙女」の歌詞に出てくるママの名字って何でしょう?
 正解の方には賞品を用意いたしますのでどんどん応募してくださいね。締切は12月25日です。
 だいき あの歌詞を頭からたどっていけば…ナガイ?カミ?
 ひろか ずーっとやってなさい!

 このコーナーでは差し当たり次のようなテーマを考えていますが、読者の方からのお便りでもっともっと中身の充実を図りたいと思いますので、よろしくお願いします。(1)吉田拓郎がやってきた (2)新御三家に敗れた少年たち (3)ヒット曲は1曲で十分!? (4)私が会ったアイドル


彰古館往来
陸自三宿駐屯地・衛生学校
<シリーズ(11)>
脚気一と征露丸
 今でも常備薬として愛用され、多数の製薬会社から販売されている「正露丸」という整腸薬があります。
 実は、正露丸は陸軍が脚気予防薬として開発したものなのです。明治時代、脚気は欧米には臨床例がなく、日本特有の風土病で、女性にはまれで、地方から都会に出て大学の寄宿舎生活を始めたり、軍に入営して寮生活をする20代の青年に多く見られました。ビタミンB1不足で起きる病気で、手足の痺れに始まり、最終的には呼吸困難に陥り、死に至るという当時、非常に怖い病気でした。
 明治17(1884)年、海軍軍医総監の高木兼寛は、白米を支給される下土官・兵に脚気患者が多く、主に洋食を食べている将校にはほとんど症例が無いことからパン食で脚気が予防できると考えました。陸軍でも、同年雑穀混入食を許可する訓令が発せられ、パン食や麦飯を奨励する師団などもありましたが、補給が続かないことと、農村出身の兵たちが、1日6合支給される白米を、何よりのご馳走と考えていたため、浸透するには至りませんでした。
 明治21年(1888)、森林太郎(森鴎外)は4年間のドイツ留学で、最新の細菌学を修めて帰朝しました。まだビタミンの概念の無い当時、森は脚気菌の発見に躍起となります。森は「脚気の原因を証明できないのは、既に科学とは言えない」と真っ向から高木に反対し、脚気の撲滅は、陸軍・海軍の面子を賭けた医学上の戦いにまで進展します。
 明治27年(1895)の日清戦争では、麦米の混合食を支給しようとした台湾軍医部に対して野戦衛生長官の石黒忠直は「いまだ学理上適切とは言えない」と反対しています。しかし結果は、海軍の3名に対して陸軍は4,064人の脚気死亡者を出したのです。
 10年後の日露戦争では、陸軍には切り札がありました。これが、征露丸です。腸チフスの研究中にクレオソート錠を飲ませていた被験者の便から細菌が検出されなかったので、脚気菌も死滅しているに違いないと考えられ、戦役中には5億6千万粒もの大量生産がされます。実際には余りの不味さに捨ててしまう兵も多かったようですが。
 日露戦争での陸軍の脚気死亡者は27,800人にものぼり、見かねた陸軍大臣寺内正毅が、森の顔をつぶさないように戦時非常食の名目で、麦と米の混合食支給を発令し、何とか日露戦争に勝利することが出来たのです。
 戦役後、整腸薬としての効能から、陸軍はパテントを民間に分け与えることにします。この時、商標の部分に初代軍医総監松本順の肖像が描かれた製品が有ります。文字通り軍医総監が顔を貸した征露丸は、陸軍のお墨付きによって、好調な販売を続けました。
 明治44年(1911)、鈴木梅太郎が米糠からオリザニン(ビタミンB1)の抽出に成功し、昭和2年(1927)やっと脚気の原因が白米に因るものだと、科学的に証明されたのです。
 彰古館には、陸・海軍が脚気撲減に当たって試行錯誤した軌跡をたどる文献の数々が残されています。

奥平ファミリー、準優勝に輝く
童謡歌唱コンクール全国決勝大会
 3空団安全班所属の奥平1曹のファミリーは、先に行われた童謡歌唱コンクール東北大会で優勝したあと、いよいよ11月3日にグランプリ(全国決勝)大会に出場した。
 大会会場は、東京の「五反田ゆうぽーと」で開催され、応募数2100組の中から厳選された各部門の精鋭が集結し熱戦を繰り広げた。審査委員長に、「さっちゃん」「雨ふりくまの子」の作曲家・湯山昭氏そして、名誉大会委員長に寛仁親王妃信子殿下が御出席され厳正に審査された。
 ラサール石井の絶妙の司会で開演、入場するや、髭づら(奥平1曹)の顔を見るなり「危ないのが…一人いるな!」と、すかさず突っ込まれ大爆笑、開演から場を和ませた。
 子供部門、大人部門と順調に進み、いよいよ家族部門。大会最年長(75歳)を筆頭に下が5歳の計7人で、「赤い風船とんだ」を末っ子の光音ちゃんが赤い風船を片手に家族の息の合ったハーモニーで熱唱すると、会場からは、どよめきとため息が聞こえた。
 結果は、子供部門の坂下良太君(妻・純代さんの生徒)は、初出場にもかかわらず見事、「銅賞」を獲得。大人部門も青森県代表の高校生3人組が「金賞」で優勝、そして家族部門の奥平ファミリー(写真)は「銀賞」で準優勝を獲得し東北の底力を全国に知らしめた。
 惜しくも優勝は逃したものの、もめにもめた末の僅差の結果と講評された。更に最後の信子殿下のお言葉では、「奥平ファミリーを見て、日本人の昔からの家族のあるべき姿を見せていただき大変心温まり本当に感動しました…」等、普段口数の少ない殿下の長々とあり余るお言葉に最年長の祖父母も感激の涙、優勝は逃したもののそれ以上に大変価値のある思い出深い大会となった。
 この模様は12月7と15日の2回BS朝日で放送される予定。

第1回日本武士相撲大会開く
陸自10隊員も参加
 「日本武士相撲大会」(同大会実行委員会主催、伊東市、伊東観光協会、日本武士相撲協会後援)の第1回大会が11月10日、静岡県伊東市で開催され、この大会に、朝霞・伊丹駐屯地の陸上自衛官10名が力士、行司、審査委員として参加した。
 武士相撲は、鎌倉時代、武将が将軍の御前で名誉に賭けて取った相撲で、戦乱の世に頻発する領地争いなどのいざこざの平和的解決法として生まれたのがはじまりだという。
 この日、会場となった奥野ダム・相撲塚前では、当時の相撲場面を描いた浮世絵に習って、のぼり旗を立ち並べ、行司や審判は武士衣装姿で登場。開会式では、民間親善大使でもあるモンゴルの相撲の女王が民族舞踊を披露し、日本初の大会に華を添えた。
 競技は、8名の選手によるトーナメント戦で行われ、選手は"まわし"の代わりにベルト付きの競技パンツを着用。国技の相撲とは異なり広い芝生の上に土俵はなく、相手の足裏以外の部位を先に地面に着けた方が勝ちとなる。
 力士たちは、集まった200人の大観衆を前に、豪快な取組みで会場を沸かせ、途中、柔道経験のある見学者が飛び入り参加するなど大会は大いに盛り上がった。熱戦の末、上手投げによる決め技で土橋進輔選手(36普連)が優勝。その後の閉会式で表彰状が贈られた。
 今回の大会立ち上げにも携わり、朝霞駐屯地で日本武士相撲部の部長をつとめる大場基美雄2佐は「武士相撲復活の目的のひとつは"サムライ精神"を甦らせる事にある。伊東大会を旗揚げの契機として、全国の陸海空自衛隊に広めたい」と意気込みを語り、今後は古武道のふるさとともいえる鹿島神宮での奉納武士相撲大会への参加も計画中だ。
 ※日本武士相撲部では部員を募集しています。問い合わせは、陸上自衛隊朝霞駐屯地研究本部4課大場2佐まで〒178-8501 練馬区大泉学園町TEL048・460・1711(内線5153〜6)

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