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   2002年11月15日号
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第6回全自衛隊陸上競技会
白熟したレース展開
2種目で大会記録を更新
 第6回全自衛隊陸上競技会が10月30日、朝霞の自衛隊体育学校で行われ、全国から選抜された、陸海空324名(うち女子51名)の選手が全13種目の競技で熱戦を繰り広げた。
 同大会は、自衛官としての気力、体力を養うとともに、3自衛隊の競技交流を通じて、体育振興に寄与するという観点のもと、平成9年より開催され、今年からは、写真判定装置を導入するなど、年を重ねるごとに内容も充実してきている。
 当日は、爽やかな秋晴れにも恵まれ、絶好の陸上競技日和り。開会式では、大会会長である、石破茂防衛庁長宮の挨拶が実行委員長をつとめる那須誠校長により代読され、続いて昨年、女子1500mで優勝した謙田紋子陸士長が力強い選手宣誓を会場に響かせると、午前9時半、多くの支援者、来賓が見守る中、大会がスタートした。
 午前中の主な競技は男子、同40歳以上、女子の1500mタイムレース。トラックは、部隊の旗やたれ幕を手にした応援団にとり囲まれ、コーチの檄、仲間の声援が選手に浴びせられ、開始早々、場内は熱気に包まれた。
 午後になると、気温18度、湿度34%と気候も安定し、ひんやりとした秋風もそよぎ始め理想的な環境で、選手達の記録もぐんぐん伸びた。女子5000mでは、小川郁美選手が、ラストスパートでタイムを縮め、大会記録を更新。「16分台を狙っていたのでタイムには不満が残るが、他方面の強者と走れて自信につながった」と笑顔で喜ぴを語った。
 続く、男子800mで陸井宏哉選手が3連覇を達成。同400mでは、飯野和哉選手がライバル、齋藤選手を下し、見事1位を奪回するなど、その後のレースも白熱。特に、男子1万mでは、3年ぶりに大会記録が塗りかえられ、また一歩、日本レベルに記録を近づけた。優勝した山本幸延選手は、「大会新という最低限のところをクリアできた事には満足」とコメント。1年間を通じて励んできた練習の成果を見事に発揮した。
 閉会式では、各賞の表彰が行われ、円谷幸吉賞は山本幸延1陸士(普通科教導連隊)に、優秀賞は、小川郁美陸士長(第1施設団)にそれぞれ贈られた。(塩田愛子)
 ※成績は次のとおり
 <男子100m>▽1位=後村欣司郎(11秒19)▽2位=堀畑純一(11秒20)▽3
位=石飛剛(11秒46)
 <男子400m>▽1位=飯野和哉(50秒49)▽2位=齋藤貫史(51秒57)▽3位
=入口栄二(52秒20)
 <男子800m>▽1位=陸井宏哉(1分57秒78)▽2位=木坂敢(1分59秒56)▽3位=中村亨一(2分O秒44)
 <男子1500m(タイムレース)総合>▽1位=小山真一(4分1秒44)▽2位=上野健太郎(4分3秒92)▽3位=上園宰人(4分5秒91)
 <男子1500m・40歳以上>▽1位=三浦良明(4分18秒8)▽2位=成田康弘(4分19秒14)▽3位=橋本隆一(4分19秒47)
 <男子5000m(タイムレース)総合>▽1位=遠藤達弥(14分56秒11)▽2位=藤井亮(15分1秒14)▽3位=伊藤孝志(15分5秒43)
 <男子5000m・40歳以上>▽1位=磯部昇(16分1秒62)▽2位=松好俊治(16分5秒21)▽3位=上甑町仁(16分10秒69)
 <男子10000m>▽1位=山本幸延(30分46秒36・大会新)▽2位=市川哲平(31分5秒31)▽3位=三宅三十四(31分27秒95)
 <男子走り幅跳び>▽1位=高橋裕志(6m90?)▽2位=徳家智幸(6m69?)▽3位=小川浩一(6m66?)
 <女子100m>▽1位=斉藤美香(13秒71)▽2位=岸七絵(13秒84)▽3位=
中島樹理(14秒22)
 <女子1500m(タイムレース)総合>▽1位=根本光子(4分42秒6)▽2位=
鎌田紋子(4分43秒7)▽3位=吉田香織(4分47秒10)
 <女子5000m>▽1位=小川郁美(17分5秒26・大会新)▽2位=尾崎元子(17分32秒4)▽3位=片山志保(17分34秒11)
 <女子走り幅跳び>▽1位=中島樹理(5m10cm)▽2位=斉藤美香(4m89cm)▽3位=上野早織(4m59cm)

全自徒手格闘大会開く
ゲリラコマンド対処の一環
 第19回全自衛隊徒手格闘選手権大会が11月2、3の両日、北は北海道、南は九州、沖縄までの選手約600名が参加して朝霞の体育学校で開催された。
 徒手格闘は、PKO活動、部隊訓練において重視される「ゲリラコマンド対処」等、自衛官としての基本的な戦技のひとつとして年々その役割が増大。開催当初より10倍に及ぶ規模に成長した同大会は、これまでの富士駐屯地にかわって、今年から徒手格闘発祥の地、体校で実施されることとなった。
 試合はトーナメント方式による個人戦軽量級120名、同重量級115名、同女子8名、団体戦の58グループの4部門で行われ、各部門で優勝を目指しての熱戦が展開された。
 ※成績は次のとおり
▽個人軽量級優勝=祷眞次郎(板妻)準優勝=土肥圭史(空挺)3位=片山和紀(11普連)、遠藤寛(板妻)▽同重量級優勝=田村友和(普教運)準優勝=喜村健作(42普連)3位=松川尚史(普教連)、土井篤(教施隊)▽同女子 優勝=川田絵梨(松戸)準優勝=秋定順(婦教隊)3位=谷曜子(18普連)▽団体 優勝=空挺A、準優勝=板妻A、3位=富教団A、同B

(財)防衛調達基盤整備協会
9人に協会賞贈呈
 (財)防衛調達基盤整備協会(首藤新悟理事長)は、平成14年度の協会賞を厳正な審査を経て3グループ(9人)に対し贈呈することを決定した。この賞は、防衛装備品の生産及び調達に関連し、民間で自発的に行われた研究開発・生産技術の向上などで、特に優れた業績を挙げた技術者等のグループ又は個人に与えられるもので、表彰式は11月25日、グランドヒル市ヶ谷で行われる。
 ※受賞者は次のとおり
(業績題目、応募者名、企業名、成果の概要の順・敬称名略)
 ○主翼インテグラルスキンのピーン成形技術開発成果▽山田毅、池田誠、尾関久忠(三菱重工業株式会社名古屋航空宇宙システム製作所)▽US-1A改の主翼外翼インテグラルスキンの製造に適用され、従来の外板と縦通材との結合作業等を不要とし、大幅な軽量化も可能とした。また、量産化の貢献で効率的調達、価格の低減にも寄与した。
 ○航空機定期修理(オーバーホール)における無公書塗装剥離剤への転換▽神山隆之、小堀修一、斉藤健(富士重工業株式会社航空宇宙カンパニー)▽従来の唯一の物質であったジクロロメタン(塩素系溶剤)が有害大気汚染、水質汚染特定物質等法的規制対象となっているほか、環境省のPRTR法などで指定化学物質として規制が強化されている中、アルカリ剥離材と中性材料を組み合わせることで、剥離方法の改良をも加え世界的にも早い時期に完全な無公害化に成功した。
 ○ウォータジェット制御装置の開発▽梅原照喜、下松八重清幸(三菱重工業株式会社下関造船所)、奥長靖久(寺崎電気産業株式会社)▽ミサイル艇「はやぶさ/わかたか」の2艇に装備され、速力・舵制御機能をウォータジェット制御盤及び艦橋盤に統合化し、艇の機動性と省力化を目的とし開発したもの。防衛庁で初めてガスタービン主機とウォータジェットを組み合わせた3基3軸の推進システムを採用し、艇を自由自在に操船し、変速及び変針を同時に制御可能とした。

陸軍の『看護婦』事始め
彰古館往来・陸自三宿駐屯地・衛生学校 <シリーズ10>
各国が日本の看護婦の優秀さを喧伝
 わが国で初めて看護婦が登場したのは明治元年(1868)戊辰戦争の折、神田の官軍病院に、薩長の負傷兵を収容した時の事です。戦功をかさに乱暴を働く負傷兵に困った病院は、看護人を女性にしたところ、患者は大人しく治療に専念したといいます。この看護人の一人、杉本かねは大学東校(東大医学部の前身)に勤務し、明治6年(1873)順天堂病院の看護婦取締りとなり、創生期の看護婦の教育に当たっています。
 明治19年(1886)に日本はジュネーブ条約に加盟し、博愛社は日本赤十字社となりますが、この頃、東京慈恵医会病院、同志社、桜井学校、東京帝国大学等に看護婦養成所が誕生しています。「患者が病気を治すのに患者本人の力が6割、医者の力が3割、残る1割は看護婦の力である」というのが石黒の持論でしたが、女人禁制の陸軍では看護婦の養成は不可能でした。
 明治27年(1894)の日清戦争に際し、石黒は参謀本部や陸軍省に看護婦の登用を上申しますが却下。
その理由として「戦功を立てた将兵が、何か風紀上の悪評でも立ったら経歴に傷が付く」或いは「女の手で触られると、名誉の負傷が汚される」などという酷いものまでありました。実際には女性の勤務によって、被服・更衣室・風呂・寝室といった経費もばかにならない、戦時の苦しい台所事情もありました。
 石黒は、一計を案じ「看護婦たるもの一に技量が高いこと、二に年齢が高いこと、三に器量が悪いこと」という条件を提示し、ついに看護婦の採用を認めさせます。つまり、一昔前の産婆さんのイメージです。

日清戦争時に日本赤十字社から派遣された陸軍初の篤志看護婦
 彰古館に残る写真では、皆さん妙齢のお嬢さんばかりです。どうやら、陸軍省のお偉いさんも、石黒に一杯食わされたのです。ところが、専門の訓練を受け日本赤十字社から陸軍広島臨時病院に派遣された篤志看護婦ですが、当初は下女・下働きのような扱いを受けていたのです。慰問にこられた小松宮、北白川宮両妃殿下は、篤志看護婦名誉会員として自ら白衣をお召しになり、仁禮海軍中将夫人が看護婦と寝食を共にされるに及び、看護婦の崇高な任務がやっと認知されるに至りました。

明治33年の北清事変ではフランス負傷兵を介護(陸軍広島臨時病院で)
 明治33年(1900)の北清事変(義和団の乱)では、日本は連合国(日米英露独伊仏墺の8カ国)として参戦、包囲された北京の各国公使館を開放します。
X線1号機を軍医学校に導入した芳賀栄次郎軍医が病院長を務める広島臨時病院では、フランス・オーストリアの負傷兵の治療を行います。派遣された篤志看護婦たちは、片言のフランス語で意思疎通を出来るまでになったそうです。本国に帰還した負傷兵は、日本の看護婦の優秀さを喧伝します。国内でも白衣の天使のイメージが定着し、欧州のナイチンゲール賞に倣い「石黒杯」も設けられました。
 現在、陸上自衛隊には看護婦から看護師と名称こそ変わりましたが、約千人の看護官が勤務中です。その教育機関である高等看護学院が所在する三宿の地に、大先輩の看護婦の写真が保管されているのも何かの因縁なのでしょうか。

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